〔それぞれにはそれぞれの時がある〕
2014年8月25日(月)
身体的生活の意味は、決して何らかの目的のためにだけあるのではなく、身体とそれ自体に内在している喜びへの要求を満たすことの中にもある。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、422頁f。
住居は、動物の住みかと異なり、個人的な生活の喜びを享受することができる空間。
飲食は、ただ単に肉体の健康を維持するためにあるのではなく、身体的な生における自然的な喜び。
衣服は、ただ単に肉体を被うためにあるのではなく、身体を飾るため。
休養は、ただ単に労働力の回復のためにあるのではなく、身体に対してふさわしい休養と喜びとを得るため。
娯楽は、もともと、何らかの目的のためにあるのではなく、身体的な生の自己目的性を最も明確に表現するもの。
性は、子どもをもうけるための単なる手段ではなく、結婚生活において二人の愛し合う人間に喜びをもたらすもの。
人間は、精神だけで生きているのではなく、身体において生きています。身体における喜びを無視する宗教は、いずれも真実に人間を生かす宗教ではありません。
イエスさまは、弟子たちとともに、飲食することを喜ばれました。
「からだ」に生かされていることをきょうも喜びたいと思います。
(祈り)
神さま、きょうも喜んで生きる者としてください。