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「身体」は「魂の牢獄」ではない

〔それぞれにはそれぞれの時がある〕

2014年8月24日(日)

キリスト教の教えによれば、「身体」は、それ自体でより高い尊厳な価値を持つのである。人間は身体を持った存在なのであり、いつまでもそのようなものであり続けるのである。身体性と人間存在とは互いに深く結びついており、分けることのできないものなのである。
・・・
身体の喜びは、自然的な人間の生の内部に、神によって約束されている永遠の喜びを指し示すものなのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、420頁f。

身体、からだ。
宗教はこの身体と魂を分けて、つまり霊肉二元論で語られる場合が多いのではないかと思います。魂は聖であり、身体は汚れた悪である、といった具合に。
しかしそれは聖書の語るとこでは全くありません。
聖書は身体と魂を一体であると私たちに語ります。
そして身体の尊さ、身体を持った存在である人間の尊さを語ります。
おおよそ身体を何か劣ったもののように教える霊肉二元論を語る宗教はにせものです。

(祈り)
神さま、身体に生かされていることを感謝します。


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