〔まず神の国を求めなさい〕
2014年8月19日(火)
「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。」(マタイ6:26~33から)
日々のパンをつくるのは、思いわずらいでも、労働でもなく、父なる神である。
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すなわちイエスは、イエスが示した道をたどり、すべてのものを神から受けようとする者の、思いわずらうことのない単純さについてだけ語り、日ごとのパンを労働の報酬として称賛するようなことはしないのである。「思いわずらい」というものは、自分の力と労働にはより頼むが、神を信じようとはしない者、すなわち神により頼むことのない異邦人が持つものである。異邦人が思いわずらうのは、彼らが、<われわれがあらゆるものを必要としていることを、天の父は知っている>ということを知らないからである。それゆえ異邦人は、神に期待せず、それを自分自身でしようとするのである。
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キリストがわれわれに贈り物として与えられており、われわれがキリストへの服従に招かれているならば、われわれにキリストと共にすべてのものが、本当にすべてのものが与えられるであろう。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、411頁ff。
鳥や野の花を見、それがどうして育っているかを考えること。それは刻々と流れていく人生の中で、少し立ちどまってみることが必要でしょう。
ただ立ち止まるだけなら、人間はいろいろなことを考えてしまいますので、立ち止まる時に、鳥や野の花、神さまがお造りになられた自然を見、そこにある神さまのみ業を考えてみるのです。
日々のパン、すなわち生きる糧は、思いわずらいでも、労働でもなく、父なる神さまによって造られると、ボンヘッファーは語ります。神さまは、私たちの必要をすべてご存じなのです。そしてそのすべてのことを備えることのできるお方であり、与えてくださるお方なのです。
(祈り)
神さま、すべてのものを神さまから受ける、思いわずらうことのない単純さを与えてください。