〔交わりと孤独〕
2014年8月15日(金)
私は、自分が祈りの中で覚える兄弟を、たとえ彼がどんなに私を悩ますにしても、決して非難したり、憎んだりすることができない。それまでは私にとってなじめず、耐えがたくさえ思われたその兄弟の顔も、とりなしの祈りをする時には、キリストが死によってあがなった一人の兄弟の顔に変わるのである。この変化は、兄弟のためにとりなしの祈りを始めるキリスト者にとって、恵みに満ちた発見となるであろう。とりなしの祈りによって克服されない嫌悪や、個人的な緊張や、分裂というものは、われわれの側に関する限り、なにも存在しない。
・・・
とりなしの祈りをするということは、私が受けているのと同じ権利を、兄弟にも認めることを意味する。すなわち共にキリストの前に立ち、キリストのあわれみにあずかることを意味するのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、403頁ff。
とりなしの祈りは、兄弟を愛する初めの一歩のようなものです。
愛するからとりなしの祈りをするということもありますが、愛せないからこそとりなしの祈りをするということもあるのでしょう。
とりなしの祈りの中で、自分自身が変えられるのです。
とりなしの祈りによって、良い意味でも悪い意味でも自分の手の中に置いていた兄弟を神さまのみ手の中にゆだねるのです。
(祈り)
神さま、兄弟のためにとりなしの祈りをする者とならせてください。