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喜びではなく神を求めよ

〔交わりと孤独〕

2014年8月14日(木)

黙想の時間は、ひとりで聖書を読み、ひとりで祈り、ひとりでとりなしをするためにあるのであって、それ以外のいかなる目的のためでもない。ここでは霊的な体験は問題にならない。黙想の時は、われわれをひとりでいることの空虚さと深淵の中へ沈みこませるものではなく、われわれをひとりでみ言葉に沈潜させるのである。黙想の時は、そのことによって、われわれに立つべき確かな根拠と、歩んで行くべきはっきりとした道を示す。
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黙想においてわれわれが予期することもできないような特別な経験をすることは、不必要なことである。
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<自分の喜びではなく、神を求めよ>―これがすべての黙想の根本的な規則である。<もしあなたが神のみを求めるなら、その結果、あなたは、喜びを受けるであろう>―これがすべての黙想の約束である。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、402頁f。

黙想、あるいは沈黙は、なにか特別な体験をするためのものではありません。自分の願う喜びや昂揚感のようなものを求める時ではありません。

また黙想は、自己吟味や自己憐憫のためにあるのでもありません。

ただ神さまを求めるときです。神さまを求めることは、具多的にはみ言葉を求めるときです。聖書の言葉に思いめぐらし、神さまに祈る時です。
神さまを求める時、結果として喜びが与えられるのです。

(祈り)
神さま、あなたを求めさせてください。


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