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饒舌が盛んとなる時代においては

〔交わりと孤独〕

2014年8月13日(水)

沈黙とは、結局、神の言葉を待ち望み、神の言葉に祝福されるという以外の何ものでもない。饒舌が盛んとなる時代においては、この沈黙の意味を本当に学ぶことが重要であり、この沈黙を一人一人が自分のこととして理解しなければならない。
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許しがたい自己陶酔的な沈黙、高慢無礼な沈黙というものも存在する。しかしキリスト者の沈黙は、聞くための沈黙、謙虚な沈黙であって、謙虚さゆえにいつでも中断されうる沈黙である。それは、言葉と結びついた沈黙なのである。
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沈黙は、寂寥感と恐怖を抱かせる恐るべき荒野でもありうるし、また、自己欺瞞の楽園でもありうる。どちらかが他よりよいということはない。だからわれわれも沈黙から、神の言葉との端的な出会い以外のものを期待しないようにしよう。われわれはまさに、神の言葉との出会いのために、沈黙に入るのだからである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、400頁f。

沈黙は時に、自分を責める時、自分に絶望する時となります。それはある部分で大切なことですが、自己嫌悪や自己憐憫に陥るだけの沈黙であれば、本当に沈黙ではありません。
逆に、自分を欺き、自分が何者にかになったかのような神秘的な、迷信的な時であれば、それもまた本当の沈黙ではありません。
沈黙はただ神さまの言葉との出会い、それ以上でも以下でもないということです。
ですから礼拝の最初に黙祷として少しの時間、沈黙の時を持つのです。また礼拝の最後に黙祷として少しの時間、沈黙の時を持つのです。

(祈り)
神さま、あなたの言葉を待ち望むためだけに沈黙の時を持たせてください。


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