〔神の忍耐のもとにある生〕
2014年8月5日(火)
「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、まわる炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」(創世記3:24)
人間は今や、「神のよう」である。今や、生命の泉、善と悪とを知る源である。人間はもはや他のものを必要としていない。人間は世界の主である。だが彼は、まさにこのことによって、孤独な主なのであり、沈黙した、侵害された、沈黙させられた、死んだ「私」の世界の専制君主にすぎないのである。
神なしに、他の人間なしに、他の被造物なしには生きることができない人間、良心に従い、懺悔して、他者が自分の生活の中に現実に実在しているかのようにふるまう人間、孤立した存在の反響のない恐ろしい孤独感から偽わって逃れるために、自分を告訴したり、自分を痛めつけたり、あるいは逆に自分を讃美したりする人間は、自分が「神のようである」ことによって何を失ったかを、知るようになる。
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アダムは知恵の木の実を食べたが、その知恵の実が彼にもたらしたものは、「生命の木」に対する渇きであったのであり、その渇きは沈められないまま残っているのである。
「生命の木」は、死の力によって守られている。生命の木は、触れることのできない神聖で近寄りがたいものとしてとどまる。ところがアダムは、門の前で行き、自分が追放された領域に対して絶えず攻撃を繰り返そうとする。アダムは自分が見失った生を、呪われた地に見いだそうと、一つの戦い、一つの探求を続けるのである。だが、そこで実際に展開されるのは、「まわる炎のつるぎ」の力に対する絶望的な襲撃の繰り返しである。そして、門は閉ざされたままなのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、387頁f。
神さまのようであることにあこがれて、知恵の木を食べた人間は、確かに神のようになりました。しかしその結果、大切なものを失いました。その大切なものとは「いのち」です。
人間が人間であるにもかかわらず、つまり神ではないにもかかわらず、神のように生きることになってしまいました。その結果、いただいたものは平安のない毎日でした。
それはいのちに対する飢え渇きでもありました。
人生は、このいのちへの対する飢え渇きを満たすための旅となりました。
しかしいのちは死によって人間から守られています。
キリストの十字架と復活は、私たちにいのちへの道を開きました。すなわち、神のようになることではなく、まことの人間となって生きる道、尽きることのないいのちに生きる道を開いて下さったのです。
(祈り)
神さま、真実の人間として生き、また死ぬ者としてください。