〔主よ、あなたは私よりも強い方です〕
2014年8月2日(土)
「正しい者には悩みが多い。しかし、主はそのすべての中から彼を助け出される。」(詩篇34:19)
「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」(1ペテロ3:9)正しい者はこの世で悩む。正しくない者は悩まない。
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正しい者の悩みには、いつも神の助けがある。なぜなら、正しい者は、まことに神と共に悩むからである。
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苦悩の中にあって正しい者は神を見いだす。それが神の助けである。
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この世が正しい者に苦痛を与えるのに対し、正しい者がこの世に与えるものは、「祝福」である。・・・
「祝福する」とはあるものの上に手を置いて、<さまざまなことがあるにせよ、あなたは神に属する者だ>と宣言することである。
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自分が祝福された者は、この祝福を他者にもたらす以外のことは何もできないであろう。このような者は、みずからの存在している場所でまさにひとつの「祝福」として存在しなければならないのである。このことがたとえ不可能なことのように思えようとも、このことによらなければ、この世は新たにされない。そして、この不可能と思えることこそが、神の祝福なのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、381頁ff。
祝福を求めて、信仰を、また宗教を求めます。健康、富、幸福感、良い人間関係、名誉などなど。
では、聖書の語る「祝福」とは一体何なのでしょう。
それはこの世が私に苦悩を与えたとしても、この世にとどまり、そこで神さまの助けをいただくこと、神さまのご臨在を学ぶことです。
そうして自分自身がこの世にあって祝福となることです。
また、苦悩を与えるこの世に対して、私は祝福を与え続けるということです。
たとえそれが困難で不可能のように思えても、祝福を与える者として存在することです。そしてそのこと自体が、また神さまの祝福なのです。
それは、まさにキリストのように歩むことです。それが聖書の語る祝福です。
(祈り)
神さま、この世にあっての日々の苦悩を、あなたが共に悩んでいてくださることを知ることができるように。この世に対して、常に祝福を語ることができますように、信仰を与えてください。