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要求してはならないが、すべてのことを願い求めることができる

〔主よ、あなたは私よりも強い方です〕

2014年7月29日(火)

「主よ、あなたがわたしを説き伏せたので、わたしはその説得に従いました。あなたはわたしよりも強いかたなので、あなたはわたしに勝たれたのです。」
(エレミヤ書20:7)

神が何を約束し、何を成就するのかを認識するためには、僕たちは繰り返し、極めて長くかつ冷静に、イエスの生涯と、言葉と、行為と、苦難と、死とに深く沈潜しなければならない・・・
・・・
確かなことは、僕たちは何事も要求してはならないが、何事でも願い求めることができるということである。また確かなことは、僕たちの喜びが苦難の中に、僕たちの生が死の中に隠れているということである。
・・・
この世が、人間イエス・キリストを引き受けるだけの価値があると認められたので、またイエスのような人間が実際にかつて生きたので、―そのことによって、そしてそのことによってのみ、僕たち人間は生きる意味をもつことになるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、373頁ff。

要求することと、願い求めることとは、似て非なるものだ、ということです。
子どもから要求される場面と願い求められる場面を想像すると、ずいぶん違う印象をもちます。
神さまに祈る時、願い求めているだろうか、と思います。いたずらに要求してはいないだろうかと反省します。
違いは、そこに愛があるかないかということでしょうか。愛がないと要求になり、愛があると願い求めることになるということでしょうか。

イエスさまをこの罪だらけの地に遣わして下さった事実は、神さまの私たちに対する愛を語っています。幼子のように、神さまに願い求める者でありたいと思います。

(祈り)
神さま、私はあなたに願い求めます。私の願いをはるかに超えた祝福のみ業を為さってください。


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