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われわれのぼろぼろの服は神に対するほめたたえとなる

〔主よ、あなたは私よりも強い方です〕

2014年7月26日(土)

「主よ、あなたがわたしを説き伏せたので、わたしはその説得に従いました。あなたはわたしよりも強いかたなので、あなたはわたしに勝たれたのです。」
(エレミヤ書20:7)

<神から逃れることができない>ということは、不安と、弱さと、悲嘆をわれわれにもたらすことかもしれないが、しかしこのことは同時に、われわれがどんな道の上を歩んでいる時にも、すなわち信仰を持って歩んでいる時にも、罪の中に陥っている時にも、あるいは迫害されたり、あざけられたり、死に直面している時にも、神がわれわれと共にいるということなのである。
・・・
われわれの弱さが、神の力の器となるのではないか。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、368頁ff。

神さまは私よりも強い方なので、私は神さまから逃れることができません。このことは否定的なことのように思いますが、私の側がどんなに変化しても、神さまが私を捕えていてくださるという現実は変わらないということでもあります。ですからとても大きな恵みです。
逆に強い人、あるいは自分のことを強いと思っている人は、神さまから逃れられると考えてしまうので、神さまとの関係が不安定になり、平安がなくなってしまうでしょう。
弱いということは大きな恵みです。

キリスト者とは、自らの弱さによって、すなわち神さまの強さによって神さまとの関係が確かにされている人です。その人の持っている平安はその人の中からあふれ出て周りの人々におよんでいきます。
逆に、自らの強さによって神さまとの関係を確かにしようとしている人は、自らの根底にある不安が、周りの人々にもおよんでいきます。

(祈り)
神さま、あなたの強さによって捕えられている私であることを感謝します。


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