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神の囚人

〔主よ、あなたは私よりも強い方です〕

2014年7月24日(木)

「主よ、あなたがわたしを説き伏せたので、わたしはその説得に従いました。あなたはわたしよりも強いかたなので、あなたはわたしに勝たれたのです。」
(エレミヤ書20:7)

エレミヤは、自分から神の預言者になろうと思ったわけではなかった。
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神の言葉が後ずさりする彼を捕え、神の招きの声が彼を固くつかんで離さなかった。
・・・
エレミヤという人間を神の預言者とさせたのは、外から来たものによるのであって、エレミヤの心の中にあるあこがれや、エレミヤの心の底に隠れていた願望や希望によるのではなかった。人間を立たせ、捕え、つかまえる言葉、人間を用い、拘束する言葉は、われわれの心の奥底から出てくるのではない。その言葉は、神が望む人を、神が望む時に、神への務めに呼び出す言葉なのであり、われわれにとってはそもそもなじみがなく、かつては知りもしなければ想像もしなかった言葉なのであり、しかも権威があり力に満ちている「主の言葉」なのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、364頁f。

愛に生きようとする者は皆そうです。そこに召しがあるのです。召し、すなわち神さまに呼び出されたという経験。神さまが呼び出すために語られた神さまの言葉を聞いたのです。
自分の願い、願望、希望、時に欲望で神さまの道を選択した者は、みな自分の思いの中で、いつかそれらを手放してしまいます。
しかし神さまの言葉に捕えられた人は、神さまの囚人ですから、手放すなどという主体的なことは起こらないのです。そのような人においてこそ愛するということがはじめて成り立つのでしょう。

(祈り)
神さま、あなたの強さを教えてください。


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