〔責任を負うこと〕
2014年7月21日(月)
まことの神であり、まことの人間であるイエス・キリストが、私の実存に一致をもたらすところでは、良心は―形式的には―なお依然として私自身のうちに一致をもたらそうとする私自身の存在の声であるが、しかしその一致は、もはや法則によって生きている私の自律性によって実現されるのではなく、イエス・キリストとの交わりにおいて実現されるのである。
・・・
私の良心の根拠と目標は、律法ではなく、イエス・キリストにおいて私に出会う生きた神と、生きた人間なのである。
・・・
解放された良心は、律法に束縛された良心のように不安をいだくことなく、むしろ、隣人と、その隣人の具体的な困窮に対して、心を開く。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、359頁ff。
イエスさまは、まことの神でありまことの人間です。そのお方がわたしと共にいてご真実をもって導いてくださいます。このイエスさまによって私の良心は成り立ちます。このイエスさまが私の良心の目標です。
イエスさまとの交わりによって、隣人に心が開かれ、隣人の具体的な困窮に心が開かれます。それ以外のものによってではありません。
(祈り)
神さま、私の良心もあなたの御手の中にあります。あなたとの交わりの中に生かしてください。