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罪人との交わり

〔責任を負うこと〕

2014年7月20日(日)

イエスは、新しい倫理的な理念の宣伝や実現には関心をもたず、したがってまた、自分自身が「よい者」であるかどうかということにも関心を示さない(マタイ19・17)。イエスにとっての関心事は、ただありのままの人間を愛するということであった。それゆえイエスは、罪人との交わりの中にも入り、彼らの罪の重荷をみずから負うことができるのである。イエスは、人間を犠牲にして、自分だけが完全な者となろうとはせず、自分だけが罪のない者として罪の重荷のために倒れている人間を見下そうとはしない。
・・・
罪のない者は、自分を無とし、他者を愛する者となり、他者の罪を負うのであり、まさにこのことこそが、イエス・キリストによって、責任ある行動の本質として示されているのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、357頁ff。

イエスさまは、罪のないお方です。罪のないお方であることは、罪人と交わられたということによって明らかにされています。罪人である人間は、罪人とは交わろうとせず、新しい倫理的な理念の宣伝や実現に関心をもちますが、イエスさまはそうではありませんでした。
このイエスさまご自身のお姿が、私たちに向かって、責任ある行動の本質として示されています。

(祈り)
神さま、罪人である私を赦して下さい。キリストを見上げ、キリストを模範として歩むことができるように助けてください。


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