〔真実を語るとは何を意味するか〕
2014年6月23日(月)
偽りとは、思うことと語ることとの矛盾であるというような形式的な定義を下すことはできないということである。・・・この形式的な定義に照らしてみる限り全く正しく、論理的にも決して間違っていないが、しかも「偽り」であるような言葉も存在するのである。
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したがって偽りとは、―それが言葉によってなされるか、沈黙のうちになされるかということにかかわりなく―、神によって造られ、神にその根拠をもっている現実を否定し、否認することであり、意識的に、故意にそれを破壊することである。・・・形式的な真理を主張するだけの冷酷な人間は、現実的なものの全体を見通すことなしに、彼が認識していると思いこんでいる個々の現実をそのつど言い表わし、それによって自分の語る言葉を真実なものにしようとしているだけである。そして、まさにそのことによって、彼は現実的なものを完全に破壊し、彼の言葉はたとえ表面的には正しいように見えても、その本質は不真実なものとなるのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、311頁f。
神さまは愛をもってすべてをお造りになられ、今もすべてのものを愛をもって総べ治めておられます。造られたもののひとつである「私」は、すべての被造物の中に神さまの愛を発見し、その愛を学び、私もすべての被造物に愛を傾けます。
真理を語るということは、この愛するということにおいて、成り立つということでしょうか。
表面的には正しいように見えて、その本質は不真実であるような言葉と態度がどれだけ私のうちにあるかと思います。神さまの愛の現実を発見する者でありたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたの愛の現実を発見する者とならせて下さい。