〔しかし私はあなたがたに言う〕
2014年6月18日(水)
「誓い」が禁止されることによって明らかにされたことは、そもそも問題の中心が、「真実」という目標が実現されるかどうかにあるということである。したがって「誓わない」ということが、かえって「真実を覆い隠す」ということになってはならない。
・・・
キリスト者は、過去、あるいは現在の事実に関係のある「誓い」において神の名を呼び求めることは不可能ではない。・・・自分の知識と良心が純粋なものとなるために、役立つのである。
これに対して、宣誓による「誓約」、たとえば「忠誠誓約」は、キリスト者をはじめから最も大きな危険の中におとしいれる。とうのはキリスト者は、自分の将来に関して思い通りにすることができないからである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、302頁f。
真実の言葉を語るために、過去と現在の事柄について、宣誓することは可能です。しかし将来のことについては、難しいこととなります。
「神の知識を留保する」ことなしに、不可能であるとボンヘッファーは語ります。
(祈り)
神さま、常に真実な言葉を語る者にしてください。