〔しかし私はあなたがたに言う〕
2014年6月16日(月)
マタイ5:27~32から
イエス・キリストに固く結びつく者は、愛の全くない「情欲」をひとりで自由に歩ませない。
・・・
さて、われわれのうちに次のような問いが起こってくるかもしれない。すなわち、<イエスはその戒めを―たとえば「もしあなたの右の目が、あなたに罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」(29節)という戒めを―、その言葉どおりに考えていたのであろうか、それとも比喩的な意味において考えていたのであろうか>という問いである。
・・・
このような問いに対して、答えはあり得ない。もしわれわれが、<もちろんイエスは、言葉どおりに考えていたわけではない。われわれはこの戒めを言葉どおりに受け取る必要はない>という答えを出すなら、われわれはもはや戒めの持つ真剣さをまともに受け取っていないことになってしまう。また、もしここで、<もちろんイエスの戒めは、言葉通りに実行すべきものだ>というようなことが言われるとするなら、キリスト教的な人間のあり方が根本的に全くでたらめということになってしまうであろうし、またそれと共に、戒め自体が無効にされてしまうであろう。ところが、この根本的な問いがわれわれに答えをもたらさないというまさにその所で、われわれは、初めて全面的に、イエスの戒めに捕えられるのである。
・・・
イエスは、弟子たちに律法の耐え難いくびきを負わせることがないばかりか、福音を通して弟子たちにあわれみの手をもって助けを与えるのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、298頁ff。
表面的な過去の律法に対して、イエスさまの言われた新しい律法は私たちの心の奥底までを神さまに従わせようとします。しかしその新しい律法の前に、私たちはみずからが罪人であることを知らされます。私たちはイエスさまの語られる律法に従うことができない罪人であることを知らされるのです。
イエスさまの厳しい律法を前に、それが比喩であるのか、文字通りのことなのか、ボンヘッファーはいずれの答えも間違っているといいます。答えをもたらさないというその所で私たちはイエスさまの戒めに捕えられるのである、というのです。
それは、私の力で生きていくのではなく、共にいてくださるイエスさまご自身のお力によって生かされていくということではないかと思います。
(祈り)
神さま、共にいて、私を生かしていてくださることを感謝します。あなたのみ心の通りに生かしてください。