〔聖なる者の共同体〕
2014年6月2日(月)
「キリスト者の交わり」そのものよりも、「キリスト者の交わりについての自分の夢」を愛する者は、たとえみな、個人的には正直で、まじめで犠牲的精神の持ち主であろうとも、結局はキリスト者の交わりの破壊者となるのである。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、272頁f。
教会とはどのようなところであるのか。キリスト者の交わりとどうあるべきなのか。それぞれに思い描く理想像、夢があります。それが実現されるために、さまざまに努力をします。それが実現されるためには、少なからず犠牲を払い、まじめに努力をします。
しかし教会やキリスト者の交わりは、そのような理想像とはかけ離れた姿を見せることがあります。そうしてつまづいたり、失望したりします。その失望は、他者への失望であったり、自分自身への失望であったります。
そのような失望は、大切なことであり、むしろ必要なことであり、神さまの恵みの時なのだとボンヘッファーは語ります。そのような失望によって、真理の神さまにお出会いすることができるのです。
人間の神さま抜きの理想像は結局は偶像なのです。
(祈り)
神さま、私が理想とする教会の交わりの姿ではなく、あなたのお心のままの教会の交わりの姿を求めさせてください。