,

義務ではなく信頼と愛が生み出す喜びと感謝

正しい裁判官によって宣告が下されるときには、あなたは永遠において何の罪も認められない状態とされ、あなたの業に応じて永遠の報いを受けます。

これらの考察から、第1に、私たちはこの人生の短い不確かな日々がいかに重要であるかを学びます。

・・・

第2に、私たち自身のために時間、行動、会話を用いるのではないということです。

・・・

第3に、私たちは義務から業を行うのではありません。

マタイによる福音書16章27節
2013年12月30日(月)

『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
387頁

永遠の報いというものに目を向けるとき、今この時の大切さ、神さまのためにすべてのことを用いること、義務ではなく喜びと愛によって行動することの大切さを思い知らされます。

昨日の礼拝でも思わず語ってしまったのですが、東近江に遣わされて1年10か月が終わろうとしていますこの時しみじみと感謝と喜びをいただいています。それは信徒の皆さんへの信頼がじわじわとわいてきているからです。

遣わされてからの日々は、前任の先生のように上手にできない自分の現実の中でもがきながら、あるべき理想像を追い求め、それにほど遠い自分の姿にがっかりし続ける1年10か月でした。なぜがっかりするのか。それはできそこないの自分を信徒の皆さんは果たして受け入れてくださるだろうかという恐怖があったのだと思います。上手にできれば受け入れてくださり、そうでないならば受け入れてくださらないのではないかという恐怖です。それはつまり信徒の皆さんへの信頼の欠如だったと思います。

もちろん信頼していなかったわけではありません。しかし上手にできれば受け入れてもらえるができなければ受け入れてもらえないというのではなく、上手にできるできないにかかわらず受け入れていただいているという信頼感がはぐくまれるのには時間がかかりました。

信徒の皆さんは神さまを信じているので教会に来られるのです。牧師が上手にするから来られているのではないのです。なんと素晴らしい信徒の皆さんでしょうか。このような教会に仕えることの幸いを本当に深く深く感じさせていただきました。

サウルが言いました「主がイスラエルを救ってくださったのだから」(第1サムエル11章13節)と同じように「主が東近江教会に集うひとりひとりを救い、支え、導いてくださったのだから」と私も喜びと感謝をもって告白したいと思います。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: