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牧師が訪問することの意味

今日様々なグループが各家庭を訪問します。何かを伝えるためであったり商品を売るためであったり、その目的は様々です。

宗教も各家庭を訪問します。その目的は自分たちの教えを伝えるためであり、自分たちの宗教に勧誘するためです。

教会も、そして牧師も訪問します。キリスト教会も宗教ですから、自分たちの教えを伝えるためであったり、勧誘するためです。教会ではそれを伝道といっています。これは大切なことと考えています。もちろんいきなり初めてのところに行くということはまれで、たいていは信者さんの家族であるとか、礼拝や家庭集会などに一度来られたことのある方の家庭を、そのご家庭の招きをいただいて訪問します。これは礼儀として訪問における大切なルールだと思います。ある方には、そのような方法は生ぬるいと感じられるかもしれませんが、私は大切にしたいルールだと思っています。

さてこれらに加えて、牧師や教会の働き人が週日、信者さんの家庭を訪問することがあります。この目的は勧誘でも伝道でもありません。いったい何なのでしょうか。

牧会という言葉があります。羊飼いが羊を飼うように、牧師は信者さんたちを霊的に養い育てます。その一環として訪問します。ここに訪問のひとつの意味があります。

しかしそれだけではありません。あるいはそれ以上に大きな意味があると思います。それは日曜の礼拝で説教を語るのが牧師の最大の務めですが、その務めを全うするために大切なこととして、自分がいまどのような会衆に説教を語っているのか、会衆がどのようなところに生き、どのような祈りの課題をいただいているか、どのような人生の戦いを戦っておられるかを知るために訪問するのです。

信者さんたちを養い育てるための訪問は、少し言葉は悪いのですが「ご機嫌取り訪問」になってしまいがちです。これは会衆が30人までの教会ならばもしかすると可能かもしれません。30人以上になると無理ですし、やろうとすると偏った牧会になってしまいます。こういう訪問は、牧師よりもむしろ信徒がお互いにやるべきです。そうでなければ教会はいつまでたっても30人のままです。

牧師は、ご機嫌取り訪問から卒業して、また新しい人へのアプローチとしての訪問からも卒業して、日曜日の説教のための訪問、説教準備の訪問をすべきです。そうでなければ日曜日の説教が、信徒の生活からかけ離れた、上滑りないわゆる「お説教」になってしまいます。


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