礼拝には、賛美、祈り、聖書朗読、説教、主の祈り、使徒信条、献金、感謝祈祷、頌栄、聖餐式、など色々なプログラムがあります。多くの教会ではその順序が週報に印刷されています。礼拝参加者はそれを確認しながら今礼拝のどこにいるのかを確かめ何がなされているかを知り参加することができます。旅における地図のようなものですね。参加者にも司会者にも安心感を与えます。
しかしこれのない教会があります。私が今遣わされている教会もこれがありません。週報にはただ讃美歌の番号と聖書の箇所、説教題が記されているだけです。これはできるだけ自由に、そして生き生きとしたものとなるようにとの願いが込められているということです。ですから司会者は導かれるままに自由に礼拝をリードすることができます。
この素晴らしい願いによってなされている礼拝ですが、現実はということ少し違ってきているようです。まず自由にといわれてもどうしていいかわからないということがあります。それで結局、礼拝式の順序の例がプリントされて司会者席に置かれていて、司会者はこれを見て、讃美歌、交読、聖書箇所などを当てはめて行われています。
ところが時々、プログラムが抜けることがあります。私も早朝などで司会をする時に主の祈りをしばしば抜かしてしまいました。前任の教会では、週報にプログラムが印刷されていたこともありますが、さらに主の祈りと使徒信条を続けて行っていましたので抜けることはほとんどありませんでした。プログラムが抜けると参加者の中にはそれに気づく方がおられます。これは当然だと思います。気づかないほうが問題かもしれません。司会者はその時気づくことができればもともと順序は自由なのですから、気づいた時点で行えばいいのです。しかしこのことは司会者にとってなかなかストレスです。それで結局、司会者も会衆も礼拝のプログラムは抜けていないだろうかということを気にしながら礼拝を行うことになり、自由な礼拝どころか、どこか不自由さを感じる礼拝となっているように思うのです。前任の教会のように実際プログラムがきちんと決まっていて週報に書かれていると、飛び入りや途中の変更がかえって新鮮で自由な雰囲気がありましたが、今遣わされている教会では自由を考えるあまり不自由になっているのです。これは人間理解に決定的な誤認があるのかもしれません。夏休みの自由研究も自由といわれるので何をどうしていいかわからず、多くの場合不自由研究になっているのではないかと思います。制服も自由といわれるとかえって何を着て行っていいかわからず不自由を感じるのですが、制服を決めれられているとごちゃごちゃ考えないでいいので自由ですね。
礼拝も決められているから自由なところがあります。その自由はプログラムが抜けているかいないかというようなことを考えないでいいので、プログラムの内容に集中することができます。