証文が取り除かれ引き裂かれて十字架に張り出されているということを、認める場合にだけ、私は、そのように評価される自分の生をたずさえて、生きつづけることができるのである。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、80頁
詩篇130編3節
2013年2月15日(金)
「生きつづけることができる」ために「そのように評価される自分の生」をたずさえます。
「そのように評価される」とは、どのように評価されるのか。
罪びとである私を、罪びとではないかのように、完全な赦しの中において下さっている、ということ。そのような「私」であるということ。それが私に対する評価であり、そのような自分の生をたずさえてのみ、私は生きることができるのです。
逆に、赦しのない中にある自分ということであるならば、自らの罪の中で、私たちは滅びてしまいます。
罪が一切赦されている自分。このような自分に対する評価は、どのようにしていただくことができるのか。
それは「証文が取り除かれ引き裂かれて十字架に張り出されているということを、認める場合にだけ」です。
神の子、神そのものであるお方が、人間となって、人間そのものとなってくださり、私の罪を一切背負って十字架について下さったということ。
私たちはいつもそこ、十字架のもとに立って、生きつづけることができます。