神が私たちのためにこの朽ちることのない代価を支払われたので、私たちの救い・自由・平和・祝福・生命は、いわば「丈夫で長持ちのする商品」となったのである。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、73頁
ペテロの手紙第1 1章18,19節
2013年2月8日(金)
神さまが支払って下さった代価とは、主イエスさまのおいのちです。十字架上で流された血であり裂かれた肉です。
何のために支払われたのか。それは私たちのためです。
私たちはそんなに尊い価値のある存在だったのか。いえそうではなく、ただの罪びとであり、滅びに向かうだけの無価値なものでした。もちろんもともとは効果で尊い存在として神さまによって造っていただいたのですが、自己中心で自分勝手な生き方が、尊く造っていただいた自分自身をうちこぼってしまったのです。
しかし主イエスさまはそのいのちをもって私たちを買い取ってくださいました。ですから私たちの価値は、この主イエスさまのいのちと同じ価値をもっていることが、神さまによって確証されました。
ですから主イエスさまに出会って、人間は初めて自分自身の新しい価値、真実の価値を知ることができます。そうして新しく価値づけられたその価値は、主イエスさまのいのちが代価となったのですから、決して朽ちることのないものとなりました。
信仰をもって歩み始めても人間はいつまでも罪びとであり、罪を犯します。つまり自分の価値を見失ってしまします。また見失うような出来事が起こり、見失うような言葉が世間からかけられます。
しかしそのような私たちの価値を見失うようないっさいの嵐の中にあっても、決して朽ちるこののない価値なのです。
「あなたは高価で尊い、あなたを愛している」(イザヤ書43章4節)の神さまの言葉は決して朽ちることはありません。