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祝福された開始

しかし、彼にとっては、そのような開始は、彼が安んじて目を閉じるに十分なほどに祝福されたものだったのである。

リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、63頁
イザヤ書35章5節
2013年1月30日(水)

この「彼」とは幼子イエスさまを拝したシメオンのことです。(ルカの福音書2章)

老いたシメオンは幼子イエスさまに神を見、めぐみを見、祝福を見ました。その祝福の完成を見ることなく天に帰ったと思いますが、しかしその祝福の始まりを見るだけで喜びに満たされ眠りについたことでしょう。

いまだ完成されていなくとも、私たちは主イエスさまにおいて開始された祝福に満たされます。十字架と甦りにおいて完全に完成された救いの御業ですが、天の御国完成に向かっている現在でもあります。私たちは待ち望んでいます。しかしそれは開始された祝福の大きさを知らないので待ち望んでいるのではありません。この待ち望みは今完成を見ることがなくとも、心安らかに眠りにつくことのできる待ち望みです。

先日の月曜日の午後、午前の大津でのスタッフミーティングを終え、闘病中の姉妹をお訪ねすべく京都の薬師山病院に妻とともに向かいました。山中越えに差し掛かったところですでに病院についておられたご友人の方から携帯に電話がかかり午後1時過ぎに天に帰られたとの連絡を受けました。

とりあえず病院に向かいました。ご家族の囲まれ安らかに眠りについておられました。み言葉を読んで祈り部屋を後にしました。

死は悲しみです。しかし主にある者の死は、悲しみの中にも永遠のいのちへの希望があふれています。ご遺族の皆さまの上に神さまからの慰めが豊かにありますように。


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