信じる者に神が約束していられるのは、そういう様々な栄光ではなくて、ただ一つの栄光―まったく特定的で特別の栄光である。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、51頁
ヨハネの福音書11章40節
2013年1月18日(金)
主イエスさまを信じて生きる者は、神さまの栄光を見ることができると、主イエスさまは言われました。神さまの栄光とはいったいなんでしょうか。
栄光という言葉は、栄える光と書きますが、まさに神さまが生きて働いておられること、神さまの存在感ということでしょう。
病がいやされる、死んだ人が生き返る、物事はうまくいく、様々な奇蹟、そういうところに神さまが生きて働いておられる、その存在感が明らかにされるというのでしょうか。この世の宗教はそのように言います。しかし聖書は、十字架に神さまの栄光が豊かにあらわされたというのではないでしょうか。
神であるお方なのに、その在り方を捨てることはできないとは考えないで、人間としてこの世にお生まれくださったこと。まったく貧しく弱い姿になってくださったこと。そうしてこの地上を私たちと同じように歩まれたこと。そして最後には弟子の裏切りによって死刑にされたこと。十字架の上で、すべての痛みを背負って死なれたこと。そこに栄光があらわされたと、聖書はいうのではないでしょうか。
その栄光を見るといわれたのです。
そうであれば、主イエスさまを信じて生きる私たちは、私の生活の中にこのような、つまり十字架を負うということが起こるとき、そこに神さまの栄光を発見するのです。
何かうまいこと言ったということではなく、むしろ誰かのために損をした、難しい道を歩むことになった、しかしそこで喜びを持ってその十字架を負ったということがあるとすれば、そこに神さまの栄光があらわされているのです。まさにそれこそ、本当の奇蹟ではないでしょうか。
そんな神さまの栄光を私の人生の中にどれくらい発見できるでしょうか。