しかし、ここで私たちの視線全体を引きつけ私たちの注意全体に値する奇蹟は、聞く少年ではなくて、語られる主なのである。神が私たち人間と事を共にすることを良しとし、私たちともっとも近い関係を持つことを良しとされるということ―それが奇蹟中の奇蹟であり、かつてアダムとエバを幸せな者とした奇蹟であり、羊飼いが拝した奇蹟であり、東方の博士がその前にひざまずいた奇蹟である。―この奇蹟の前に、今朝私は静まりたいと思う。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、46頁
第1サムエル記3章9節
2013年1月13日(日)
旧約聖書の第1サムエル記の冒頭には、不妊の女性ハンナが神さまの憐れみの中で男の子を儲ける出来事が記されています。この男の子はサムエルと名付けられ、神さまのお言葉を人々に伝える祭司として成長します。3章には少年サムエルが夜眠っていると神さまからの呼びかけられる場面が出てきます。答えることのできた少年の信仰はまさに奇蹟であると思いますが、それ以上に神さまが少年に語りかけられたというところに、説教者リュティは奇蹟を見出します。
聖書にしるされている神さまは、今朝、私たちにも語りかけてくださいます。これこそ奇蹟です。聖書の言葉を通して天と地を造り今もすべてを支えておられる神さまが罪びとでしかない私に語りかけてくださるのです。この奇蹟の前に、私たちも静まりたいと思います。