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究極の責任感

2011年6月17日(金)の朝日新聞に掲載の記事に心が止まりました。

「結局はすべて社長一人の責任」
松下幸之助の有名な言葉である。

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誰も守ってくれないと思えば、責任ある仕事から逃げようとする人が増えるだろう。その逃げた人の分だけ、逆に責任感・正義感の強い人の負担が過大になり、ただでさえ疲弊している組織がポキッと折れてしまうかもしれない。

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「結局はすべて社長一人の責任」という厳しい覚悟は、もっと単純な構造に宿るはずなのに。

(朝日新聞 2011年7月17日(金)「沼上幹の組織の読み筋」より)

私たちの団体が十年ほど前、組織改革の取りかかった頃、団体の組織図をあらわす作業を皆でしました。それに先立ちまず現状の組織図を書こうとしたのですが、これがなかなか難しかったことがあります。つまり自分たちの属している組織の図を誰も容易に書けなかったのです。書けなかったというのは正確ではないかもしれません。それぞれが書いたものがあったのですが、それぞれに違いがありお互いに納得するのが難しかったのです。つまり組織に対しての共通したイメージがなかったのです。これ自体のその当時の団体の姿を如実に現していると同時に致命的なことだったと思います。

このような中にいくつかの対外的なことも含む問題が団体に浮上しました。その取り組みはまさに手探りだったのですが、今から思えば「究極の責任感」の所在があやふやだったように思います。これはリーダーの問題ではなく、それまでの歩みから発生した問題というべきで、リーダーはその問題を一手に引き受けなければならないということでした。

団体の究極の責任感はどこにあるのか、各牧師の究極の責任感はどこに持つべきなのか、それぞれの責任所在はどこにあるのか。とても大切なテーマでありつつ、見過ごしにされてきた感があります。

団体の組織改革の目的は決定機関と責任所在の一致です。諸教会が独自に法人格を取得することによってこの目的を達成しようとして取り組んできました。この夏でほぼその形が出来ますが、形が整うことになっただけかもしれません。今一度この組織改革の意味を確認し、更なる取り組みをともに考えていきたいと思います。

その上で健全な協力関係のある団体運営に進み、諸教会がいきいきと活動し、福音宣教に前進できることを期待しています。

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