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牧会者自身にとっての「失うこと」

この秋号の牧会ジャーナルのテーマは「『失うこと』と向き合う3」でした。巻頭の上沼先生の「牧会者自身にとっての『失うこと』」のなかで次の文章が心にとまりました。

献身者としてすべてをささげて神学校に行ったのですが、それ以来身に着けてきたことを失うことはできないのです。そのようなシステムの中にすでに置かれているのです。「失うこと」はシステムからはずれることです。そのシステムは牧会者の身の一部になり、さらに鎧にまでなっているのです。そしてまさに、このようなシステムが霊的な前進を妨げていることがあるのです。

上沼昌雄、『牧会ジャーナル』 2010年秋号 No.48 2ページ

自分にとっていつも裸にならされることとはいったいどういうことであるのか。

例えば、牧会場の問題点、説教の問題点、牧師としての人間性の問題点を、家族や信徒、同労の先生方から指摘されたとします。そのような言葉を素直に聞けなくさせるものに上記の「鎧」があるのではないかと思いました。

確かに献身の時に、後ろの橋は切って落とされた、すべてを捨てて従いまつらん、と主の前に立たせて頂きました。しかし牧会が始まるとそこでは自分の中の足りなさに直面して、それがゆえに色々なもので身を固めてきてしまっているように思います。教会が成長した、教勢が上がった、目に見えるさまざまな祝福がある、交友関係が広がった、知名度が上がったなどなど、色々なことで、自らの居心地の良さを確かめてしまうことがあるのではないでしょうか。

幸い私の場合、そのようなものはあまりないのですが(これは別の意味で反省しなければなりませんが・・・)、それでもわずかのこの世のものに寄りすがっている自分を見せつけられることがあります。いずれも天国には持っていけないのですから、潔くイエスさまのみを土台とするものにして頂きたいと思います。

自らの問題点の指摘は大変貴重なものです。聞く耳を持つことは牧師の生命線なのかもしれません。


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