ボンヘッファー、『説教と牧会』、森野善右衛門・訳、新教出版社、1975年3月31日発行
説教 Ⅳ 説教職と按手礼
主観的な召命の確かさとは何か。それは、人はこの職務には全くふさわしくない者であり、自分の信仰に関しては全く召されていないということを知ることである。自分をふさわしい者である考える人には、確かにすでに第一の前提が欠けているのである。召命の確かさは、主はわたしを必要としておられる、という気負いや自己確信や自尊心とは何の関係もない。ルターは講壇からの祈りを、「主よ、わたしはふさわしくない者です。・・・しかし人びとが教えを必要としていますから・・・」という言葉をもって始めたという。しかしこのような否定的側面と共に、積極的な面としては、職務に対する、教会に対する、福音に対する真実の愛が存在している。職務に対する愛は、彼に与えられた委託に基づいている。メソジスト教会においては、教会がある人を、その神学教育を受ける前にすでに〔牧師の〕職務につくことを定め、それからその人を神学校に送ることが行われている。しかしこの職務を求めることは許されてもよい。Ⅰテモテ3・1には、監督の職務は καλο(’)ν ε(’)ργον(良い仕事)であると言われている。キリストの教会に仕えることは、確かにつまらないことではなく、立派な仕事であるにちがいない。召命を受けた者が、διδακτικοσ(終了形)(教えるにふさわしい者)である条件は確かに存在する(Ⅰテモテ3・2)が、しかしその職務への深い愛が欠けているところでは、やがて空転と弛緩とが生じ、職務に対する嫌気さえ生じるのである。実際に、福音に対する愛であるこの〔職務への〕愛は、日々の生活において、祈りと聖書を読むときに働くであろう。そしてこれらすべてのことが試みの中に置かれ、崩壊の危機に直面することがあっても、われわれはもはや退いて、キリストを証しする責任から免れることはできないのである。この職を辞したいという誘惑がわれわれにはつきまとうであろう。しかしそこで辞することはわれわれの品位を計る標準ではない。この職務はわれわれをとらえてもはや離さないであろう。ここでイザヤ書6章が妥当する。罪をゆるされた者には、仕える者としての道が備えられているのである。
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自分が全くふさわしくないということを知ることが説教者として、伝道者としての召しの確かさであるとボンヘッファーは語りました。これは単なる謙遜ではなく主にあるへりくだりなのでしょう。主の前に全くふさわしくないものであることを学びたいと思います。また同労者の中にあっても全くふさわしくない者であることを学びたいと思います。「互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい」の言葉を大切に受け止めたいと思いました。