静まりの時 創世記4・1~16〔神の前に立つ個人〕
日付:2025年07月07日(月)
9 主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」
健やかに生きるために私たちは二つの問いに答えなければなりません。
一つは、罪を犯し神さまから身を隠したアダムに対して投げかけられた問いです。「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』」(創世記3・9)
自分自身がいったいどこにいるのか。今立っている所はどこなのか。どこに向かおうとしているのか。自分の立っているところを知る。自分を知ること。
もう一つは、今朝の御言葉。弟を殺害した兄カインに対して問われた問いです。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」。あなたの兄弟姉妹はどこにいるのか。愛すべき兄弟、隣人がどこにいるのかを知る。隣人への愛に生きること。
この二つがあって、人生の幸福は築かれていきます。この二つがあいまいになっている中では、何をしても満たされることはありません。
それにしてもカインとアベルの献げ物で、二人を別々に扱われることには納得できない部分があります。色々と説明を試みようとしますが、大切なことは、聖書はそれについて何も語っていない、ということです。
リュティは以下のように、その説教集で黙想しています。
「ここでは、なぜ主が二人の兄弟とその供え物を別様に扱われたかについても、何の説明も、ましてや弁明もなされていません。・・・神は拒否する自由をお持ちなのです。「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」(出エジプト33・19)。ただ一般的な説明として言えることは、次のようなことです。すなわち、神は、何でも等しくあらねばならないという、平等専一主義に拘束されない方だということです。神は一方の兄弟に多くを与え、他方の兄弟に少なくお与えになります。だが、そうすることによって、まず先なる者が他の者を兄弟の情愛をもって支えるようにと配慮なさるのです。平等であるよりも、相違していることが、兄弟関係をよく保つ前提になるのです」。(リュティ、『アダム』、新教出版社、1989年、199頁)
信仰がなければ受け入れられない言葉だと思います。不平等をまえに私たちは、なぜ不平等なのだ、と問いますが、かえって不平等が私たちに問いかけているのです。そしてその不平等を通して神さまご自身が問いかけていてくださるのです。
リュティは、ここで、弟アベルを通して兄のカインを祝福しようとされた、と続いて記しています。兄はむしろ弟を祝福するべき立場であるが、祝福してあげなければならない弟のほうが兄を祝福するようにと、神さまは語られた、と。
生まれつき健康な者もそうでない者も。さまざまなハンディの中に生きなければならない者も。何一つ不自由のない中に生を受けた者も。裕福な中に生まれた者もそうでない者も。人生の半ばで、様々な違いが生まれたことも、それを自己責任として個人に矮小化してしまうのではなく、共に生きる者どうしとして了解し、むしろ積極的にその違いを受け止め、互いに配慮し合うようにと生きる道を選択する。そこでは、強者、豊かな者、持っている者が、そうでない者を祝福するということではなく、むしろ弱者、貧しい者、持っていない者が、そうでない者を祝福するように、神さまはご計画なさる。まさ神秘です。
おおよそ、一方通行の援助、配慮は相手には届きずらいのですが、自らも受ける者であるということが謙遜をもって受け入れられている援助者の援助、配慮は、一方通行から守られ、互いを生かす豊かな愛に実を結ぶのだと思います。