わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ

静まりの時 ヨエル2・28,29〔聖霊の約束〕
日付:2025年06月06日(金)

(新共同訳、共同訳2018では3・1,2)

28 その後、わたしは
 すべての人にわたしの霊を注ぐ。
 あなたがたの息子や娘は預言し、
 老人は夢を見、青年は幻を見る。
29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、
 わたしの霊を注ぐ。

 人間は何でできているのか。水分が60%、タンパク質が18%、脂肪が16%、ミネラルが6%と説明しても説明しつくしたことにはなりません。人間には感情があり、意思があります。おそらく肉体と精神と心によって人間はできている、ということなのだと思います。
 では霊とか魂といったものはいったいなんであるのか。広辞苑によると、霊とは「肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」とありました。魂については「動物の肉体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの」とありましたので、違いがあるようでないような感じです。
 そうすると人間はとりあえず、霊、を持っていることになります。確かに、人間が造られたとき(創世記2章)、神さまはちりで形作った人間に「いのちの息を吹き込まれ」、それによって「人は生きるものとなった」と書かれています。人間は神さまの息を吹き込んでいただいてはじめて生きるものとなりました。この「息」と訳されていることばは「霊」とも訳されることばです。
 人間である、ということは、この霊をもっているということなのですが、創世記3章において、その霊は大きく傷つけられました。あるいは失ってしまいました。
 しかし神さまは、再び人間にわたしの霊を注ぐ、と言われたのです。
 人間は神さまにお出会いし、霊を注いでいただいて、再び生きるものとなります。

 今度の日曜日には礼拝後洗礼式が行われます。牧師は洗礼を受ける者の上に手を置いて「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けます」と語り、洗礼を授けます。洗礼式で大切なことは、水や方法にあるのではなく、この牧師のことばです。
 洗礼式は水を使いますので、これを「水のバプテスマ」(マタイ3・11ほか)と誤解することがあるのではないかと思います。教会が授けているのは、水のバプテスマではありません。聖霊のバプテスマです。よく「聖霊のバプテスマを受けましたか」という問いと共に、洗礼式におけるバプテスマとは別のものを強調しそれを大切に考えることが起こってしまっているかもしれませんが、それは歴史の教会の立場ではありません。教会で洗礼を受ける、ということは、父と子と聖霊のバプテスマ、すなわち聖霊のバプテスマを受ける、ということなのです。
 ここで大切なもう一つのことは、洗礼を授けるのが、按手を受けた牧師、であるということです。按手を受けた、ということが一つの権威をあらわしていると考えるかもしれませんが、それよりも、按手、すなわち、手を置かれたということで聖霊が付与された、ということが大切なのです。牧師に按手をした牧師もかつて按手を受けた者です。その牧師に按手をした牧師も按手を受けた者です。手を置く、そして手を置かれた、というつながりが、連綿と続き、二千年の教会を築いています。洗礼を受けた者は、こうして二千年の教会というキリストのからだにつながる者となります。按手によってキリスト者はすべてあの12弟子につながることになるのです。キリストのからだにつながることによって、私たちは実を結ぶ者となります(ヨハネ15章)。按手はサクラメントではありませんが、ある先生はあるところで、按手は準サクラメントとして考えてもよい、といったことを書いておられました。この按手は聖餐式においても大切に考えられるべきものです。いくら立派な信仰者でも按手を受けていないならば聖礼典の執行は控えるべきです(控えるはこの場合「準備している」という意味ではなく「見合わせる」という意味です)。逆にとんでもない人物でも按手を受けているならば、その聖礼典の執行は有効です。これは古代のキリスト教会におけるペラギウス論争で決着しています。


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