静まりの時 マルコ8・33~38〔失われた者の救い〕
日付:2024年11月11日( 月)
33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
イエスさまからサタンと呼ばれたペテロの気持ちを想像すると大そうがっかりしたであろうと思いますし傷ついたことだろうと思います。そんなペテロの気持ちを想像できないイエスさまではありませんが、しかしイエスさまがそのように言わざるを得ないほどに、このペテロの問題は深かったのだと思います。
ペテロはいったい何をしたのか。前節を見てみましょう。
「32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」
この「イエスさまをわきにお連れして、いさめ始めた」というのがよくなかった。サタンの所業と言われてもしかたのないことであった。ではなぜペテロはイエスさまをいさめたのか。いさめるとは、おさえ止める、禁止する、戒める、(目上の人に対して)誤りや良くない点を改めるように言う、忠告する、と言った意味です。その前節を見てみましょう。
「31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
イエスさまが弟子たちに教え始められたのは、十字架と復活でした。そのことを単にぽつりと言われたのではなく、弟子たちに「教え始められた」。それをペテロはいさめたのです。イエスさまは、それは言わないほうがいい。あなたにおいてはそんなことが起るはずがない、と忠告したのです。そのペテロにイエスさまは、下がれ、サタン、と厳しく言われました。
十字架と復活の教えを否定することは、サタンの所業なのです。
では逆に十字架と復活の教えを受け入れそれに生きる、とはいったいどういうことであるのか。
34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
十字架と復活の教えを受けいれ、それに生きる、ということは、「自分を捨てること」「自分の十字架を負うこと」そうして「イエスさまに従っていくこと」すなわち「イエスさまを主とすること」です。
そのように自分を捨てる、イエスさまのために、福音のために、自分のいのちを失うならば、「自分のいのち」を救うのです。逆に、自分のいのちを救おうと思うならば、逆に「自分のいのち」を失ってしまう。イエスさまはそう言われました。
この逆説的な真理を私たちは今生きているだろうか。
ここで大切なことは、イエスさまは「自分のいのち」はどうでもよい、と言っておられるのではありません。自分のいのちは「たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょう」と言われているので、自分のいのちは全世界よりも貴い(尊い)もの、貴重なものなのです。
大切だからと言って、それを、自分の手の中に置いて、自分の都合の良いように、自分の欲望のままにしようとすると、かえってその貴重な自分のいのちを失ってしまう、と主は言われます。
本当に自分のいのちを大切に考えているならば、それが貴重なものであると考えているならば、それを「捨てる」。そうしなければ、本当に大切にすることにならない、と言われるのです。
自分のいのちを捨てる、そうして自分の十字架を背負う、人生に与えられている自分だけの十字架を担っていこうとする。それは一見自分のいのちを捨てる、そまつにしているように見えるかもしれない。しかしそこにこそ、人生を取り戻す、人生を充実させる、自分のいのちに生きる道が築かれていく。自分を生きていないとするならば、それは十字架から、人生の重荷から逃げているからだ、と言われるのです。
38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」
「わたしとわたしのことばを恥じる」すなわちイエスさまとイエスさまのみことばとを恥じる、とはいったいどのような意味であるのか。
十字架を負うということばを恥じる、そう言われたイエスさまを恥じる。それはペテロのやったことです。サタンにも匹敵する所業です。
胸を張って、イエスさまとイエスさまのおことばを宣べ伝えたいと思いました。
礼拝において説教を語る、ということは、神さまのことばを取り次ぐということですが、それは昨日から学び始めたコリント第一の手紙の冒頭に書かれている「神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから」ということばにおいて明らかにされているように、まず語る者が、自らを神さまの使者として召されている、みことばを語ることが神さまのみこころである、という確信を持つことが必要です。
そして同時にそれを聞く会衆にも、そこで語られているのが、確かに神さまからのことばである、という信仰が必要です。確かにパウロが語っている。しかしパウロを通して、今この時、私に向かって神さまが語っていてくださる、という信仰が必要なのです。
この語る者と聞く者との信仰的了解がなければ、説教は成り立ちません。礼拝自体も成り立たない。
ところが自分自身を振り返ってみると、時折「みことばを恥じる」ということが起こっているのではないか。どういうことかというと、これから語る言葉は会衆にどのように響くだろうか、きちんと聞いていただけるだろうか、神さまのことばとして聞いていただけるだろうか、と不安になることがある。
会衆には悪気があってのことではないと思いますが、説教の批判と聞こえてしまうことばを語る人がいる。説教者にとっては、それはある意味で貴重な、大切なことです。正しい批判者を持つことは、説教者にとって大切なことなのです。そういう存在を説教者は大切にしなければならない。そうしていつも自分を研鑽することを怠ってはならない。説教者のために祈っていてくださる会衆から意見は大切なものなのです。
しかし礼拝において、語られたことばを、この人は本当に神さまのことばとして聞いているのだろうか、観劇か何かに来ているような気分で、自分を喜ばせることばを聞きに来られているだけではないだろうか。それこそテモテへの手紙でパウロが語ったように、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代」(第二テモテ4・3,4)を前にしているのではないか、という気持ちにさせられることも起こってくる。実はこれはインターネットの時代を迎えてますます現実化していると思います。
そうすると、今度は説教者が会衆に媚びるようになってしまう。耳障りの良いことばを語ろうとするようになる。まるで治療の必要な容体の患者を前に、当たり障りのないことばをかけてやり過ごすようなことをしてしまう。それこそ、イエスさまとイエスさまのことばを恥じるようになってしまう。そうしてサタンの所業とイエスさまが言われたようなことをしてしまう。一つの、そして大きな説教者の誘惑、そして戦いがあると思います。
それはきっと自分自身を捨てることができていないということが問題なのだと思います。だれがどういおうとも、自らが黙想の中で神さまから語っていただいたことばをまっ直ぐに語る覚悟が必要なのだと思います。しっかりしなければならないと思いました。