静まりの時 詩篇119・129~136〔みことばの光〕
日付:2024年12月12日(木)
130 みことばの戸が開くと光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。
欄外の注を見ると、「の戸」は補足、と説明があります。新共同訳、共同訳2018では以下の通りです。
「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」(新共同訳)
「あなたの言葉が開かれると光が射し 無知な者にも悟りを与えます。」(共同訳2018)
神さまの言葉が開かれる。いったい誰が開くのか。神さまが開かれるのか、それとも人間が開くのか。あるいは御言葉そのものが開く力を持っているのか。
ちょうど蒔かれた種が発芽するように、種自身がその力を持っている。しかし発芽には、温度、水分、空気、といった三つの条件が必要です。これがない限り発芽しない。どんなに種に力があったとしてもこの条件が整わないかぎり発芽しない。
聖書の言葉を読んでいても、常にそれが開かれるとは限らない。それは御言葉に力がないからではない。読む者の条件が整っていないからである。御言葉を読む者の条件とはいったい何だろうか。
御言葉が、神さまからのラブレターであり、私を生かす唯一なくてはならないものであるならば、それを読む、あるいは聞くために、おのずとその条件を想像することができるのかもしれない。
たとえば、時間に遅れないようにと全力疾走でやってきて、息が上がっている状態で、いきなり御言葉が語られても、心の中に届いてくるはずがありません。まず息を整えて、心を静めて、そうして聞く条件を整えようとします。あるいは聞くためには余裕を持っている、ということか。
語られているときに、体の向きも大切です。語っている人を頂点として、自分の両肩を底辺の二点として、二等辺三角形を作るように、体の向きを整えます。
聞く者の表情も大切です。聞こうとする意欲がさまざまな形で表現されてこそ、聞こえてきます。話者への愛があるならば、適度な相槌も必要かもしれません。
批評家として聞いていても、心に届くことはありません。その時、自分に語られた神さまの愛の言葉として聞く。たとえ自分にとって心痛いような言葉であったとしても、それが神さまの言葉であれば、必要なものなのですから、いったいどのような意味があるのだろうか、と耳を傾ける。
他にもあるかもしれません。御言葉には圧倒的な力がありますから、神さまが必要と思われれば、このような条件が整わなくても、心に響くものですが、やはり神さまへの愛を持つ者として聞くことは大切なことなのです。
神さまへの愛を持って聞く。礼拝の心、祈りの心を持って聞く。そうしてこそ御言葉は開かれます。光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。