未来に向かって

イザヤ43章18節~21節

礼拝 説教 佐藤彰牧師(福島第一バプテスト教会)

イザヤ 43:18-21
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

主の前で生きる覚悟

ローマ書 14:7-12

14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

             『主の前で生きる覚悟』

人は生きるのも死ぬのも覚悟が必要だと言われた方がいました。覚悟次第だと。

進学も就職も結婚も、それが死を覚悟する時も生き抜く覚悟があるなら生を全うできるのではと思います。

7節 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

質問:あなたは誰のために生きていますか。

と問われるなら大半の人たちは自分のために生きています。とお答えになるに違いない。

しかし、本当に自分の為だけに生きている人はいないように思います。自分を必要としてくれ、愛する者のために生きているのではないでしょうか?

質問:あなたは誰のために生きていますか。

それはあなたの愛する人、大切に思う人、一諸に生きる人、がその対象ではないかと思います。

自分に生きる人は、自分のために仕事に行き働き、懸命に残業します。食事を作りごちそうを食べます。毎日自分のための日常を繰り返し趣味に生き、喜びを見出し死ぬまでこれを繰り返すのです。

私たちは本当に自分の為だけにこのような営みを繰り返しているのでしょうか。

人は自分が大切に思い、愛する者のため、すなわち自分以外の誰かのために生きることによりそこから得る喜びに生かされているのではないでしょうか。

死でさえも大切に思う人のためならできるのです。自分のために死ぬ人はいません。と言う聖書が言う通りです。

8節 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

私たちが誰かのために生き働き、誰かのために死んだとしても、その誰かがそんなことを望んいないとしたらどうでしょうか?

例えば、愛する子供のために一所懸命生きたとしてしかし、子供はそれを望んでいず迷惑が

られたらどうでしょうか。あなたはそれをやめますか?家族のために懸命に生きたことに報われない言葉にあなたを支えた生きる力を失われるでしょう。しかし、自分のためにいきている

なら力は失われることはないはずです。人に依存する動機は相手の態度で愛する気力が失われてしまいます。しかし、あなたの愛が、あなたを愛し救いのためにその命を捨て十字架に掛から

れた方の言葉があなたを愛する者、愛の行動の動機となるならば人から言われる力を奪われるような言葉もあなたから愛する力を奪うことはできません。愛する者に向けられて来た愛も、キリストの愛に報いる動機に生きることになるのです。

10節 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

さばくとは裁判のことではありません。右と左にさばく振り分けることです。すなわち白黒はっきるとつけることです。

当然自分は白であり相手は黒です。相手に黒のレッテルを貼る(悪)自分は正しいとしてしま

うのです。前回に14章1~6節には信仰として野菜しか食べない人は自分が信仰に厚くそう

でない人を不信仰と侮ります。逆もまた神様が作られたものを何故感謝して食べないのか理解に苦しみます。お互いに自身の見解を正しいとして譲らない。さばき合うのです。

なぜさばき合うのでしょう?

自分の義(正しさ)、自己愛に生きるなら相手は裁くべき存在として映ってしまいます。しかし、キリストが語られる愛に生きる時、赦されて生きる自分として生きる意味を見出すのです。キリストと共に信仰で生きる。心に決めて生きるお互いでありましょう。

見ておられる神

創世記16:1~16

16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」

16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

             『見ておられる神』

神様はお約束を守られアブラハムの血を継ぐ子孫を天の星、砂の数のように多くの子孫をお与えになると約束されました。アブラハムは故郷を出発する時も保証を得て出発したのではなく語りかける生ける神と出会いその言葉を信じる信仰により生まれて初めて出発しました。

TVの人気番組に初めてのお遣いという番組があります。小さな我が子がはじめてお遣いに出かけます。

おっかなびっくり着いていきたい気持ちを押さえてハラハラドキドキしながら待つ親の思い、神様は信じて歩みだす初めての信仰による出発に見守るスタッフのカメラの中継のモニター前で釘づけになる親の思いは神様の思いだったようの思うのです。

買い物を終え買い物袋の重さに疲れて引きずりながら歩く子供は中身が道に落ちても分かりません。

大きな失敗かもしれません。アブラハムも目的地にたどり着いてから信仰が零れ落ちるように失敗しました。でも神様は咎めたりしませんでした。祝福して財産が増えているのです。

神様の約束に従いましたが後継ぎが生まれません。神様に嘆き祈ります。神様はアブラハムの子孫をお与えになると固く約束されました。それを信じたアブラハムは信仰による義を与えられ祝福されたのです。

アブラハムの子孫であることの確信は夫婦共通の確信となりましたが、サラは年老いた自分では普通に考えて無理だと判断したのです。それならアブラハムの血を受け継いでさえいればいいわけですから身近に仕えて良く知るハガルに女主人のサラは命じました。

しかしここからが家庭問題が起きました。女奴隷ハガルが懐妊し女主人を見下し始めたからです。

江戸時代の大奥で将軍の後継ぎであるお世継ぎを身ごもり部屋子がいままで偉そうにしていた人たちを見下し確執が起きたような話しです。

サラは自分で考え判断しハガルをアブラハムに与えた事が発端でした。にも関わらず事の責任はアブラハムのせいだと奥さんから責められた可哀そうなアブラハムでした。

アブラハムも面倒臭いのかサラの好きなようにしたらいいと問題丸投げにしてしまいます。

いじめに耐えかねて家出してしまうハガル。自業自得と言えばそれまでですが、アブラハムもサラもハガルも信仰により歩む姿は見られません。しかし、神様は見捨てられない方なのです。

ハガルに女主人のもとへへりくだり帰るようにと語られます。帰れば針の筵です。しかし、みことばに従うハガルに神様は祝福を与えました。彼女から生まれた子供によりサラと等しい恵みが与えられたのです。

サラもアブラハムも神様は責められづつまらない家庭問題にも介入され導き見守られる神様なのです。

語る使命

ペンテコステ祝日礼拝

使徒の働き 2:1-13

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、

2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。

2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、

2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、

2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。

2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。

                『語る使命』 

イエス・キリストを信じた人はその恵みを証しし伝える使命があることを初代教会のイエスの弟子たちから受け継いでいます。

教会を家にたとえられますが、家はどこからが家でしょうか。土台からが家でありイエス様は教会の土台です。その教えを土台としイエス様の十字架とよみがえりまでが土台です。そして使徒たちが使命を受けて伝え始めたのが家のやぐらです。ペンテコステは家の棟上げ式みたいなものです。その棟上げ式に起きた出来事から外に向けて教会は拡大を始めたのです。

教会が基礎を築き建物を建て上げるために必要なのは人と語るということです。

2:1にペンテコステの祭りの日に起きた出来事が書かれています。この日聖霊が注がれました。

突然起きたかのように思いますがこれはイエス様が前もって予告され弟子たちには故郷に帰らずにエルサレムで待つているように言い聞かせられていました。

この日の出来事に注目してみましょう。2節~3節に突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、この音を聞いたのは6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。とあるように外にいる人々も何事が起きたのかと驚き集まってきました。

この時聖霊が注がれましたが、旧約聖書に書かれている聖霊が注がれたものと今回は違う点がありました。それは3 炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

言葉が発せられる舌と表現されています。このことはその後の出来事と大きく関わりがあります。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

聖霊が注がれることは神様の約束でした。その目的についてイエス様が言いました。

ルカ 24:47-48

24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

罪の赦しによる救いが宣べ伝えられる。教会に十字架があるのはそして外の見えるように建てられているのはこの意味です。

宣べ伝えられイエス様の目撃者たちが証しする使命を持ち語る働きをするのに舌の形で聖霊が現れたのは大きな意味があります。

その後、他国の言葉で語り始めたとあります。語られた言葉は当時の公用語のギリシャ語やラテン語ではなく離散したユダヤ人や信仰を持つた異邦人も含んだと思われます。

何故多種の言語を語るのか。あらゆる言語で語られ伝えられことを意味しています。

幕末のまだ禁教令が解除していない頃、フランスのパリ外国宣教会と言う団体がありました。

長崎の大浦天主堂を作った宣教団体です。長崎の宣教に入る前に沖縄の漂流民である人から日本語を習い聖書を翻訳したフォルカード神父という人がいました。彼は日本へ潜伏し宣教しようと準備をしている時、別の日本からの漂流民と出会い伝えようとしましたが言葉が通じないことがわかりました。しかも、苦心して翻訳した聖書も標記としては読めたのですが何が書いてあるのかわからないと言われ自分が日本語だと信じて苦労して学んだものが無駄だったと知り宣教を諦めました。日本の中でも方言の違いは言語の違い程大きく意味が通じません。

しかし、この神父が残した聖書は沖縄宣教の基礎をなした事業として今も輝いています。

沖縄のクリスチャン人口は4%だと聞きました。

あらゆる言語で神の恵みが伝えられることは神の御計画です。

福音は語られなければなりません。何故、それは罪による滅びからの救いがかかっているからです。神様はその使命を教会に御与えになりました。

聖書を語ることは語る技能を必要とします。そしてすべて信じる人たちにその技能を持つようにと勧めているわけではありません。教会は語らなければならない使命を共有することです。

ある人は祈り、ある人は語り、ある人は証詞し、ある人は掃除し、食事の準備をし、語る使命を与えられた教会の働きにそれぞれの役割を担い教会の語る使命を担う共同体でありましょう。

弱い者を受け入れなさい

ロ-マ 14:1~6

14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

                     

◆真に強い信仰とは

1節あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

信仰の弱い人について聖書はこう言っています。弱い人は野菜よりほかには食べません。

信仰が強い強い弱い人とはどんな人でしょうか?信仰の熱い人、薄い人、足りない人など様々な表現で言われますが、宗教的に信仰熱心な人は信仰熱心な熱い人ー強い人と考えられています。

野菜しか食べない人はベジタリアンではなくおそらく信仰の理由で肉や魚を殺して食べず野菜しか食べてはいけないと考える信仰を堅く守る人だったと思われます。これが信仰として神の御心にかなう生き方だと信じている人です。

私たちはこのような自分の信じた事柄を実践する人を信仰熱心な人と呼びますがパウロは信仰の弱い人と呼んでいます。どうしてでしょうか?特に旧約聖書の律法に従うユダヤ人だと思います。

コーシエと呼ばれる食物規定を守り信仰を生きる人たちが同じ教会の仲間にいたようです。かつてパウロも熱心に規定を守る人でしたからそういった人たちとの違いを持つ人たちとの良き関係を築いて平和を保つ秘訣を教えてくれています。

パウロがなぜそれらの人の信仰、すなわち昔の自分を含めて弱い信仰と呼ぶのか。それは、自分を強く見せたい、熱心で倒れることのない強い信仰のように見せる人が実は弱い信仰なのだと言うのです。強い信仰と見せようとする人が実は弱い信仰なのだと。誰よりも自身の弱さを知りキリストに寄り頼む弱い人が実は強い信仰の人だという語っているのです。

◆十字架の信仰に立つ信仰の教会

3節食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

同じ信仰なのに微妙に違和感を感じてしまう。その考えをダメだししてしまう人。

自分は神の与えられたものをすべて感謝して食べている。自分の方が正しくて他は狭い考えで生きていると。その人と意見を交わす時どう言うでしょうか?あなた間違っているよ。神様は…

果たして間違いなのでしょうか?おかしな考えなのでしょうか?

自分の正しさで他人の意見を裁きダメだししてしまう人に神様の十字架の赦しが分かつているでしょうか。意見を裁いてはなりません。

これがパウロの奨める教会における意見の違いを持ちながらも受入合う人間関係の奨めです。これは教会における人間関係だけでなく普段の人間関係にも言える考えです。

5節ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

6節日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

他を見て生きる信仰ではなく自分と神様との歩みを大切にするお互いでありましょう。

時刻は来ています

ローマ書13:11~14

◆主イエス・キリストを着なさい。

私の友人で、すこし変わった趣味の人がいます。怪獣映画ゴジラのファンなのですが彼の部屋にはゴジラの特撮映画の本やグッズがありプレミアもののマニアが垂涎のものがありました。ある時、この人が私の所に訪ねてきてしばらく泊めて欲しいと言いました。なぜかたずねたら特撮映画を撮る円谷プロが経営難のため映画で使用した着ぐるみを売却することがマニア本ででたために彼はなんと親から仕送りされていた学費を使いこみ着ぐるみを買いました。そのため電気代が払えずガスも止められてしまい食べるに困りましたが親にも頼めず、要するにバイト代が入るまで居候させてほしいと言うことでした。仕方なくそれからは友人と寝起きを共にすることになり買い共同生活をしました。そのお礼がわりにゴジラの着ぐるみを私だけにきさせてあげると言われ手伝ってもらい着てみました。ゴジラとはこういう気分なのかと貴重な体験をし着るものにより来たものの気分、心になれる体験でした。

イエス・キリストを着なさい。それは、イエス様として生きることです。イエス様になれるわけではありませんが、イエス様のように考え、生き、心を用いることです。

◆時刻がもう来ています。

この時刻はめざましアラームが鳴っていて行動を開始する時です。なぜなら始まっているからです。

なにが終わりの時ですか。

私たちクリスチャンは終わりの時が来ている緊張感が必要です。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

ここで言われる救いは艱難時代と再臨による主の救いです。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

光の武具とは何でしょうか。

エペソ6章に神の武具について書かれています。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、 また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

これらの備えを自分の洋服をきてはいませんか?

腰に真理、それは全ては腰です。腰に知識である真理ではなく自身の古い価値観で歩んでいませんか?胸に正義、自分の義が心を支配していませんか。

足には福音、あなたの足で歩いていませんか?信仰の大盾、攻撃は遠くからではなく懐に飛び込んでくるものかもしれません。それらを守るものは神への信頼です。眠りから覚めて信仰の火と心に聖霊の油を備えて歩みましょう。

愛は律法を全うします

ローマ書 13:8~10

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

◆愛に借りはあっても貸しは無い

(8節) だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

人は貸し借りで生きているわけではありません。しかし、人は貸し借りで生きているのです。家を買うとき銀行から借り、車を買うときもローンを組み返済しています。

人に貸しがある、借りがあると思うのは物質的なもの以上に恩の貸し借り、すなわち愛の貸し借りがあります。しかし、愛は貸し借りとは考えないものですが、必ずしもそうとばかりは言えません。

それは、人に良くしてあげてもそれが返ることがなければ見返りを求める自身の心は貸しと考えているのです。気づかないあいだに愛の貸し借りが存在しています。しかし、聖書は借りがあってはなりません。と言います。愛は別ですと。愛の貸し借りがあってもいいと。しかし、借りがあってもいいと。貸しがあると考えるならば人に報いを求めます。

母が亡くなりたくさんの愛と恩に報いることができなかった事に心が痛んでいます。しかし、自らが親となり子に報いられることを求めていないのも親であることが分かるようになり、愛は借りはあっても貸しがないのだと思います。

◆神の愛に生きる

(10節) 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

イエス様は律法で最も大切な教えは、神を愛し隣人を自身のように愛せよと言われました。それが律法であり預言者だと。すなわち、神の御心であると。

律法は人のために与えられたものです。人の社会を築き人がどう生きていくべきかを教えてくれる法令集のようなものです。人を愛し御心を語り働かれた証詞集が旧約聖書と言えます。愛を行うことが旧約(律法であり預言書)の本義ならば愛は律法を完成させるものなのです。

愛に借りはあっても貸しはありません。貸しがあるとしても報いは神様がはらってくれます。そして自分では払えない罪の代価をイエス様が御自分のいのちで払ってくださり今も未来も神様の元で生かされる保証を与えられた恵みにより律法である神の教えを完成うる愛を与えるクリスチャンとして歩ませていただくお互いでありましょう。

神に立てられたゆえに

1節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

◆神に立てられた権威

上に立つ権威、存在している権威なみな神によって立てられていると聖書は語ります。

この聖書の言葉を読み素直に納得できる人は多くは無いのではないでしょうか。

人類の歴史の中で神の御心に適う政治、政治家、国があったでしょうか?神を信じるイスラエルの歴史を見ても該当する人は僅かです。キリスト教がヨーロッパ世界の価値観を形成した時代をみても皆無と言えます。個人レベルで見たらもう少し見出す事が出来ますが上に立つ人たちが神に立てられていると言える人格であり人を見定めてのことであれば1節の御ことばは現代を生きる私たちには意味をなさないものとして捉えられてしまいます。御ことばが普遍的真理の言葉としてこの御ことばをどう理解すべきなのでしょうか。

◆上に立つ権威に従うべきです

専制君主国家であっても民主主義国家、または社会主義国家であっても制度を維持する国の法律があります。法は人が定めたものであり法の権威と言うものがあるならばそれは人の定め人の考えた決めごとに従うことになります。福沢諭吉は言いました。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と。人は対等です。人に上下貴賤はありません。なのになぜ人が人に従わなければならないか?

人の社会には上下関係は付きものです。親子、会社の上司と部下、学校の先生と生徒など様々です。しかし、誤用された平等主義は良き上下関係の道を否定し良き社会と関係を築いてきたものを崩壊させてしまいました。上に立つ権威に従うべきです。とは神が定められたものがあり上下の敬うべき道があると教えているのではないでしょうか。人と人の関係に権威があるのではなく神が置かれたが故の権威なのです。人の定めた制度や法律さえも欠点がありますから改革し修正が必要でしょう。盲目的に立てられた人に従うことでは無く、従わない事を前提ではなく従うことを前提に制度、関係はより良いものに変え良い社会を求めるべきはクリスチャンとしての道なのです。クリスチャンは「人に従うよりは神に従うべきです」と信仰第一として上に立つ権力者に逆らいました。しかし、良き市民であるよう務めたのです。クリスチャンは良き市民であるべきです。

(7節 )あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

打ち勝ちなさい

(17節)だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、

悪に悪で報いない。悪とは何か?悪の存在とは誰か?それは常に自分以外の相手は悪となりうる存在です。

悪―大、中、小  (大)傷つけてくる存在、(中)傷つけ派しないが怒りを向けてくる存在 (小)不満に思う相手(何らかで自分が不満に思う)例ばおはようございますと言ったのに言わない。自分も言わないようにしよう。聞こえない振りをした。自分の意見に反対。文句、苦情を言う。

怒りを呼び起こす相手はすべて悪(悪く良くない)存在。

怒りで報いるーそれが悪を悪で報いると言うことです。

腹が立つ、少し言い返した。それが悪いの?(動機はどうか?

すべての人が良いと思うことを図りなさい。 

公善―怒りで返さない。これがクリスチャンとしての戦い方だと言うのです。 

いきなりハードル高いです。恵みの高き嶺日々我が目当てに祈りつ歌いつなおも登りゆかん。

(18節)あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

自分に関する限り(原意=もしできるならば)必ずそうしなさいと言う事ではない

ラゲ訳汝らが力の及ぶ限り平和を求めよ、人と平和を保ちたいと誰もが願っている、と信じたい。敵対する人が怒りを持つ時、必ずしも平和を保てるとは限りません。

しかし、神様との平和を失うような怒りに心をまかせてはなりません。

(19節)愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

復習は悪に対する報いを与えることです。仕返し、敵討ち、

※自分の正しさの確信に基づいて復讐しないにように。

神様、悪に報いてくださいと指さすその指が自分に向いている。

罪にたいする報い…それは十字架にかかるためにこられたイエス様に向けられました。

(20節)もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、

良きサマリヤ人のような隣人愛    イエス様の十字架を見上げることなくそのような愛はできない。

あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

燃える炭火を積む…積むとは載せること怒りを燃え上がらせる隙間をつくらせない

薪はたくさんくべれば逆に燃えない、薪が燃えるためには息を吹き込まなければならない。他人の意見、同調、共感、あおるような意見があるとさらに頭にくる。

(21節)悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

悪に善で報いるという戦い方がクリスチャンとしての戦い方であることを。

天国への招待状

11節 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

マリやは主イエスの遺体が失われたことを知っていました。しかし、それでも再び墓の前に戻ってきました。そこに主はおられないと分かりながらも墓ののぞき込むマリヤの姿に深い悲しみ感じます。イエス様は大きな愛をくれたのに自分は何もできない悲しみの中にいました。

12節 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

白い衣は天国の住人の証し、その人たちが悲しみと死を表す場所に座っている。それはマリヤの悲しみから見える天国の希望が。前回は墓の前から見えたものは闇と墓、すなわち絶望でした。

13節 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

マリヤはまだ悲しみと闇の中にいました。「よみがえることを理解していなかったのです」。その理由が誰かの責任にしている言葉に表れています。悲しみにある時、それが自分の責任であろうと。

14節 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

悲しみの中にいる人、苦しみのしか見えていない人にはよみがえったイエス様が共におられる事のに気づくことは簡単なことではない

15節 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

人の声も彼女を苦しみから立ち上がらせ、主が共にいることを気づかせることはできない。

16節 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

主は共におられる。しかし、人はそれに気づかないで自分の心にあるものしか見えていない時、その人に語りかけ悲しみにうちひしがれているそんな人を見つめておられることを気づかせてくださる。それが「名を呼ぶ」ことだ。

自分が呼ばれていること、自分に語りかけていることに気づくのは名で呼ばれることだ。

17節 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

イエス様は喜びのあまりすがりつこうとするマリヤをご存じでした。しかし、それをしてはならないと言われました。言葉を裏返して読むと父のもとに登ったイエス様にならすがりついても良いと言うことではないでしょうか。すなわち、天に昇り父なる神の右にて私たちを執り成すイエス様にすがりついてもいいと言うことです。

18節 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

17節で語られた主のことばは、マグダラのマリヤにとり古い今までの自分との決別です。絶望の中で見出したイエス様、目の前にいるイエス様を追いかけてすがることはマリヤの精神的な拠り所だっいたからです。イエス様のおっかけ、目の前のイエス様は消えていきます。しかし、あなたを見つめて執り成し共にいて救うイエス様に信仰で寄り頼む者はイエス様はもう失われることはありません。

今イエス様はあなたに呼びかけています。執り成し祈られるイエス様、それがよみがえられたイエス様です。

何を信じたのか

◆目の前の失望に翻弄される弟子たち

イエス様の死とよみがえりは人類に様々なものをもたらしました。信じた者に罪の赦しによる救いを与え神の御国の恵みを保証されました。それゆえに死は終わりではなく御国への通過点に過ぎません。

ではイエス様の死は信じた最初の人たちに何をもたらしたのか。

(1節)マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。闇と墓は彼女に与えたものが何であるのかをイメージさせます。七つの悪霊に憑かれたと書かれるこの女性にとりそこから救われたことは地獄から天国に移されたようなものです。イエス様の十字架の死は彼女に再び闇と死をもたらす絶望でした。(2節)それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」主の遺体が見つからないのは死を悲しむことすら出来ない苦しみが彼女を襲いました。

そのことを知らせに使徒たちの集まる家に行きました。それを聞いたペテロと(おそらくヨハネ)が走りだしました。足の遅いペテロでしたが最初に墓に入ったのはぺテロでした。あとからもう一人の弟子が入ってきましたが中にはイエスの遺体は無く遺体を包んでいた布だけがありもぬけの殻でした。それを見たもうひとりの弟子について考えてみましょう。(8節 )そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(9節) 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

もう一人の弟子は、何を信じたのでしょうか?イエスがよみがえったことでしょうか?

この弟子が見たものは空の墓とイエス様の遺体が包まれた時の布でした。

最初のそれを見たマグダラのマリヤの報告を聞き確認して、その通りだったので、そに言葉を信じたと考えられます。それゆえに次の9節の御ことばがイエスの弟子たちの信仰の状態を教えてくれ問題点を教えてくれます。

◆神の約束を

イエス様が以前に御自身のよみがえりについて語られた言葉はどうしたのでしょうか。目の前の悲しみ、苦しみ、試練に飲み込まれ聖書の約束はどこえやら。

9節の言葉がわざわざ書かれている理由は、弟子たちはよみがえりを信じたのではなかったようです。今を生きる試練と苦しみは私たちに聖書が語る約束への希望を見失わせます。今の時代、疫病感染の恐れと苦しみに翻弄される時代です。

イエス様は言いました。終わりの時代の苦しみについてイエス様は、ルカ 21:11大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし目の前の絶望に心を奪われてはなりません。21:32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。   神様の約束に心を止め時代に動かされることなく信仰により歩み励まし合い歩む教会でありましょう。

へりくだる心と信仰

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。      ローマ書12:16

◆一つにさせる事を邪魔するもの

互いに一つになることは難しいことです。なぜなら、みな違うからです。しかし同じ考え同じ気持ちにならなければならないわけではありません。パズルのピースのように皆違う形でいいのです。しかし信仰は一つでなければ教会はバラバラです。

ローマ教会には様々は人たちがいました。ローマ人の市民階級で市民権を持つ人たち、ローマ人以外の人たち、非市民で市民権を持たない人たち、奴隷、商人、技術者など身分や職業、人種の違いなど様々です。

教会の交わりにおいて一つの心にあるとはどういうことはどういうことでしょう。

次の言葉から何が一つにさせないのか見てみましょう。

身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはなりません。

おそらく教会には身分と教育が受けられた人とそうでない人、経済格差の壁がありました。ローマ貴族の人~奴隷まで様々な人たちがいて、日常生活では奴隷を所有する人が、主人と奴隷という関係が教会では対等な関係で会話するわけです。中には嫌悪感を持つ人、そこまで行かなくても不快な感情を抱く人もいたのかもしれません。また、自分こそ知者などと思っている人がいたからこそ忠告しているのかもしれません。事実この手紙を書いた時、コリント教会にはそういう人たちがいた為問題が引き起こされていたのですから。知識のあるそういう職業の人、教育を受けられず公用語のギリシャ語が読み書きできない人、

何がキリストの体なる教会に壁をもたらし機能不全、動脈硬化をもたらすのか。

これまで当たり前と信じてきた価値観が神の教えの前に光に照らされる時、剥がして捨てなければななないものであることが明らかにされる時、剥がされるのを拒否  する人はプライドが邪魔をして教会を去るかもしれません。そうでなければ無視をするか、痛みを伴っても信仰で受け入れるかです。

◆キリストにへりくだる姿に

10節兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。尊敬心を持つ人はへりくだる人なのです。へりくだればればくだるほど重みのある態度、言葉となり重んじられる人のなるからです。尊敬される人にならなくてもいいです。へりくだる人になるとき重んじられ尊敬される人となるのです。この違いを乗り越えることができるのはキリストにある信仰と愛です。

キリストのへりくだりの十字架こそ教会を一つにできるものです。

身分の低い者に順応するのは見返りの無い愛を求め神の報いを求める信仰から来るものです。知者である高学歴の人がいたのでしょう。財産、地位、その知り合い、学歴、人は誇ろうと思えば何でも自慢します。誇るこころを持つ人とへりくだる心を持つ者が神の御前に立つのみです。十字架の主の血の流れを遮る動脈硬化となる者を取り除き健全なキリストの体としてくださいますよう願いましょう。

喜びと痛みの伴う祝福

◆祝福を祈る者に変えてください

14節 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。

パウロのこの言葉は次のイエス様が言われた御ことばに通じる言葉です。

マタイ 5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

ルカ6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

しかし、私たちに危害を加えたり迫害したりする者を祝福することに感情はそれを受け入れることが出来ません。この言葉は迫害する者を擁護するのものではありません。では迫害する者を祝福するとはどういうことなのでしょうか。

祝福する側について考えてみる時、迫害する者に対する祝福と迫害しない者への祝福とどう違いがあるでしょうか。当然神様の祝福を祈るということであり恵みが伴うことを願うことです。この2つの対象に対して祝福の内容に違いはあるでしょうか。祝福自体には変わりはありません。あるとするならば祝福する側の心の問題です。 

迫害する者を祝福するのを心が拒否します。拒否する心に対し聖書はそれでも従えと言うのでしょうか?聖書がわたしたちに呼びかける事をもう少し考えてみましょう。喜びのともなう祝福の言葉と喜びの伴わない祝福とどう違うのでしょうか?祝福になにか違いが生まれてくるのでしょうか?感情が拒否するのはやむ得ないのです。しかし、祝福することを止めてはならないと聖書は語ります。神への祝福の祈りは、祝福する相手を神の祝福することのできるものへと変化させるものだからです。

◆イエス様の祝福

15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

神様は御自身の御心に適わない行為に生きる者を祝福はなさいません。その人の為祈られる時、祈られる祈りに応え神の介入があります。

喜ぶ者といっしょに喜ぶ、泣く者といっしょに泣くこともおなじなのです。

喜ぶ人が感情的に好きではなかったら共に喜ぶことができるでしょうか?

泣く者が悲しんでいても好きではなければいっしょに悲しむことはしないでしょう。

嫌いな人が喜んでいても共に喜べないのです。どちらも問題点は同じなのを気がつきましたか?それは感情です。この感情をなんとかしないと迫害する者を呪い憎み祝福を祈るどころか呪いを祈ることになります。

詩篇22編のダビデの祈りをみてみましょう。敵に対して呪いの祈りをしています。しかし、その祈りの最後は呪いでは無く神への賛美で締めくくられ信仰に立ちます。神様は罪への呪いを祝福に裁きを赦しに、怒りを愛に変えてくださいました。

それは、神様を仰ぎ、イエス様の十字架を仰ぐ時のゆえにです。

どうして見捨て給うか。と十字架で祈る時、捨てられるはずの私たちが赦された理由をしるのです。罪人への裁きと呪いを赦しの愛と救いの祝福に変えてくださる恵みの前に、祝福を得て変えられなければならないのは私たち自身であることを知り御前にぬかずいてへりくだる者と変えていただけるよういのりましよう。

祝福を分かちあう心

ロ-マ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

聖徒とは、クリスチャンのことです。学校で学ぶ生徒ではなく、神に学ぶ人たちです。ここにおける対象となるのは聖徒でも無ければ、旅人でもありません。

聖人の入用に協力し、もてなしを与える側に神様は語りかけています。

すなわち与える側の愛を実践するように語られているのです。

私たちが御ことばを実践できるできるできないは別で、従うつもりがあるかどうかなのです。聖徒の入り用、旅人をもてなす。なにも命を与えよとは言ってはいません。協力ともてなしは比較的できる愛だと言えます。

◆無償の愛の実践

聖徒は同じ信仰者ですから身近な人と言えます。旅人(巡礼者)は常に身近な存在だったのです。

身近な存在に出来ることをしてあげる愛。しかもキリストの愛で見返りを求めない愛。私たちはすぐに見返りを求めてしまいます。してあげたのにわたしが困ってても無視してるしありがとうもない。ありがとうは礼儀ですがこれは受けた側が求められることで与えた側が求めることではありません。あげたのに何の返しもしてもらったことが無い、見返りを求めそれが無ければ裁いてしまう自己の愛。

私たちはこのような身近な小さな愛にも利己的なのです。小さな愛ではなく狭い愛と呼べるかもしれません。

小さな愛も持たない私たちが御ことばに従い無償の愛を実践したいと求める心があるならあなたも聖徒です。そして聖書の言葉は人生を導く指針となります。方位磁石が常に北を指すようにどこにいても天の御国への道を指し示してくれます。

◆与えられ分かち与える神の愛

12:1霊的礼拝について語りました。神のチュー二ングを合わせ日々神の御声を求める者に生ける言葉は聞こえるのです。

12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。もう一度言います。これはクリスチャンが目指す見返りを求めない愛の実践、しかも大きな愛ではなくいつでもできる無償の愛なのです。

例えば、今私たちは天国の門の前にいると過程します。あと50cm 無償の愛を行うなら天国に入れます。しかし、私たちは見返りを求める愛になってしまう。ではどうしたらいいのでしょうか?

……………………無償の愛・あなたは持ち合わせていますか?

無ければどうしたらいいでしょうか?

ルターは言いました。主の祈りの「日毎の糧を今日も与え給え」とは食物の糧だけではなく私をキリスト者として生かしめる霊的糧なのです。求めなければ生きられないと知るキリスト者は今日も主に日毎の糧を求めるのです。と言いました。

キリストが豊かに持つ無償の愛の賜物を分けていただき12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。分かち与える愛を与えよと宣う主の声に従う者でありたいと願います。

信じる力

ロ-マ 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

◆望みを抱いて喜び

私たちは神にあってどのような信仰の望みを抱いているでしょうか?しかし、私たちが思っている望みは漠然としているかもしれません。

神様がくださる恵みの賜物は人間が約束しているのではなく全能の神様が約束してくださっているものです。ゆえに望みが確信のレベルになり望みを抱いて喜ぶことができるのです。

望みは、約束に対して抱くものですから約束を知らなければ望むことも少ないと言えます。私たちが抱く望みは天国をまず挙げますが神様は多くの約束を与えてくださっているのに知らないことは残念なことです。例えば、飢えた人が大金持ちが欲しいものを与えると言っているのに水だけ欲しいと言うようなものです。

信仰の望みによる確信からくる喜びを与えたいと願われる神様に感謝しましょう。

◆望みを喜びにする祈り

望みを抱いて喜び、と言われた言葉を読むと喜べないこともあるのかと考えたくなります。実は言うと信仰の歩みには喜べないこともあります。喜べることばかりじゃありません。パウロは信じたら悩みも苦しみもなくなるような幻想は語りません。なぜならイエス様を信じて誰よりも苦しんできたのはパウロだったからです。

だからこそ信仰の歩みに苦しみがあっても望みを抱いて喜ぶことことができるのは望みに対する約束への確信が神様にある喜びに立たせてくれることを分かち合おうとしています。

この望みはイエス・キリストにある望みです。この望みが喜びとなるには、イエス様にあるものに与えられるわけですからイエス様に繋がる祈りが必要です。聖書の約束から与えられる望みが知識から信仰に変わるためには祈りが必要です。なぜなら祈りは祈る者がイエス様から受け取る確信の信仰を与えてくれるからです。

◆望みと祈りを繋ぐ患難

望みを抱いて喜ぶために祈りが必要です。そして、望みが確信となり喜びとなるために祈りが必要ですが。これが、絶えず祈るとなるにはもう一つ必要です。それは料理の隠し味のようなものです。ピリッと辛いスパイスのようなものが必要です。それは艱難、試練です。神様は私たちが祈らないことをよくご存じです。絶えず祈り、信仰からくる望みの確信がリアルなものとなるために艱難があり絶えられないと感じる時、神様に依り頼まなければ生きられないと悟るときより頼むものと変えられるのです。しかしここで私たちの信仰があきらめの信仰ならば望みを抱いて喜ぶ信仰からはほど遠いものです。

私たちが望みを抱いて喜ぶ者となるために、祈り神に寄り頼む者としてくださる神様の大きな愛に信頼しましょう。

御霊によって生きる

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

                                ガラテヤ5:22~25

私たちにとり生きる力はどこからくるのでしょうか。

食べ物、仕事、人間関係、健康などでしょうか。たしかに人が生きる上でこれらのものは必要不可欠です。しかし、これが私の生きる力であると言えるものがあるでしょうか。人が生きる上で力を得るのは肉体の力でもなく、食べ物でもなく、人間関係でも無く、健康でもないように思います。生きる力の根源の力は心に得られるものであり、心から出るものによるのではないでしょうか。心に生きる力が無ければ生きるために必要なものも役立たないのではないでしょうか。

◆生きる力を与える御霊

生きる力は御霊により与えられます。

御霊の実はどこに結ぶものでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つの実はみなこころに結ぶものです。これらの物が植物の実に例えられたように、実は養分を貰い時を経て成長するもと言えます。心に結ぶ実が豊かである時、人間関係に表れる愛が豊かである時、良い関係が生まれます。喜びは心が見出すもと言えます。神様は御霊を人に与えられます。御霊は聖霊なる神、人と交わる人格神として私たちにお住まいになられます。いわばもう一人の人格を持つ人が私たちの中に住むことです。聖書によると悪霊が人に住むと人格破壊を持たらしますが、聖霊は私たちを神にある豊かな者へと導いてくださる方です。人を豊かにしてくれる力の供給源は御霊なる御聖霊です。御霊はこころにお住まいになり、イエス様への信仰を与えるために福音の御言葉に光を与え、悟りを与え、従う信仰を与えキリストに強いつながりを与え給うお方なのです。

◆御霊を消してはなりません

エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

悲しませることは神様の御こころと違う考えと行いをしていることです。

御霊はこころに住まう方であると共にその住まいから存在を消される方であるとも言えます。コロナ禍の中で送った昨年、何が起こるか予測できないのが世の中でありました。導き給う神様の御声に信仰を持って進めるようでありましょう。御霊の存在を意識し、心に語り導き、光を与えて教え悟らしめキリストに深く根ざすキリスト者とし給う聖霊を学ぶこの一年でありましょう。

霊に燃え主に仕えなさい

今日の聖書の言葉でパウロは3つのクリスチャンとしての生き方を薦めています。

①善に親しむ

愛に偽りがない。も数えたらもっとあるのではありませんか?と思われるかもしれませんがこれは善なる生き方に含まれますので1つと数えます。

しかし私たちは善に親しめない罪あるものだとパウロは言いました。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。善に親しめない理由は罪の力だと。しかし、御霊は私たちを罪の力から解放し神の言葉に従える者としてくださいました。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

私たちの性質をキリストにより変えてくださる御霊の力が、善を愛し悪を憎む裏表の無いクリスチャンと変えてくださるのです。

②心から互いに愛し合う

信仰の交わりに必要なのは尊敬心が必要です。

兄弟愛は相手の事を思い自分を与える愛です。しかし、あなたの事を思って言ってあげてるのになぜこの愛が分からないの。と思う愛はどのような愛でしょうか。愛の押しつけ、上から目線の愛。尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。へりくだる者でなければないません。上から目線では尊敬は生まれません。   私たちは常に貧しい者であり日毎に与えられなけらば生きられない、心の貧しい霊的貧困者であり主に日毎求める者です。心へりくだり与えられなければならないのが自分であることを知るならば、兄弟愛と尊敬を持ち人と接することができます。

③勤勉で怠らず、主に仕えなさい。

霊に燃えが抜けているじゃないかと思われるかもしれませんがそうではありません。このことを話す前に勤勉であることについて話したいと思います。

勤勉なクリスチャンであるべきです。勤勉であることは、何かを思いつき情熱を持ち始めるよりも大変なことです。継続するモチベーションが求められるからです。

主に心を向けていき信仰を堅く守り、守らなければ悪魔はあなたの勤勉さの心に緩みを与えるだけで勤勉では無くなりさらに怠惰になり仕えることも捧げることもさせなくしてしまえば元の状態よりも悪くなります。そのエネルギーは主に心を向けて行くものだけが得られるものです。歩み続ける事が主に仕えることであり心を内燃させる福音により救われた私たちがどう歩むべきか今日もパウロが語ってくれています。勤勉であり続けることを助けてくださる主により心から主に仕えさせてくださいと祈りつつ歩みましょう。

キリストの体

【福音により集められた群れ】

それが教会です。そしてどういうのが教会なのか

【教会には同じ動きをするものはない】

(4節) 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、教会はキリストの体です。人体に例えられる体はみな同じ動きはしません。いわばバラバラな動きをしています。

【同じ動きをしないのが教会の姿】

教会に人数まだ少ない頃は、教会の活動も何をするのも皆で活動します。

しかし、人数が増え奉仕を分担するようになると自分の担当する奉仕以外のことは分からなくなります。しかし、これは成長し働きが拡大したといえます。

聖書はこのようになるのが体として当然の姿であると、(4節)すべての器官が同じ働きはしないと説明しています。つまり望むべき姿であると言っています。

【賜物により動く教会】

(6節)私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので

私たちはみな賜物を持つ者たちです。すなわち、自分で獲た物以外のものを持つ者はみなギフトにより生きています。

自分の体を鏡で見てください。どれか自分で創ったものはありますか。みな創り主が造り私たちにくださったもの、ギフトです。

人と違う何かの才能、技能を賜物と呼ぶのは的を得ていません。それらのものは生まれつき得ている人はいませんし努力し習い身につけたものです。後からの賜物と呼ぶ人もいますが無いなら求めて得られるものとも言えます。

【大切なことはキリストにあること】

大切なことは、(5節)キリストにある、と言うことです。教会の人数が増えお互いのことが分からず、活動で何をしているのか分からなくても一致がないのではありません。どれほど大きな教会も、素晴らしい説教も、建物も、奉仕も、キリストに繋がろうとしないものは教会としての意味を持ちません。(礼拝、聖研、家庭集会、役員会であってもそうです)これらのものが他の集まりと違うものでなければなりません。

それはキリストにあって、と言う集まりでなければなりません。

一人一人がキリストにつながっていることです。ただ胆に教会に来ているとか奉仕しているとか、問題ではありません。教会は共同体であることを重視しますが神様に繋がるのは個人的なことです。教会が救われるのではなく個人が救われるからです。家長が救われたから家族が救われるわけではないからです。

だからこそ一人一人がキリストに繋がる、キリストのある、キリストとともにある、キリストの内にある希望、キリストの恵みのうちにある者として歩みましょう。

信仰の量りに応じて


◆キリスト者としての歩み

ローマ1章から12章までは福音による救いについて12章から福音により救われた人がどう歩むかについて話し始めています。

(2節) この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

神様に焦点を合わせた歩みに自分を変えていく事を薦めています。

◆霊的な礼拝

キリスト者として生きるために「自分を変えなさい」と語っています。

なにが変わらなければならないのか?この世と調子を合わせる生き方が波風立たないし無難な生き方ですがそんな生き方が福音を信じた私たちの信仰の道として、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、ることなのか問われ神の教えに適う自分に変わらなければなければなりません。

私たちがこの世と合わせるのではなく、神の御心に合わせる生き方に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。と語られる生き方こそ神を日々仰ぎ見る礼拝でありなさいとパウロは薦めます。

◆慎み深い考え方を

12:3節では「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と注意を促しています。

私たちの心は何を思おうが自由ですが、思うことが必ずしも益となるわけではありません。心は神の前に罪を犯すからです。すなわち心で信じて義と認められるのも心なら、心で不満と不平、自己正当化で神に思い上がるならば命の道から踏み外してしまうからです。

例えば、どうしたらいいんですか?と問う時、答を求めてそう問うのか、それとも疑いを挟んで問うだけの疑念を挟んだだけの問いとの違いは何か?

心に思うことは信仰にもなり不信仰にもなる。だからこそ慎み深い考え方をしなさいと語ります。

◆信仰の量り

信仰の量りとは自分が今、信仰の確信として持てる自分の心の器の量です。

私は神様の恵みにより頼んでいますが、今確信を持ち進めるのはここまでです。

後は、神様に祈り、答を待ち進むか立ち止まり待つか、次の導きを祈るか?

神様に自分思いを押しつけるような思い上がるような自分であるなら、神と向き合う日々の霊的礼拝の中で自分が聖霊により新しく変えられていくものとなるお互いでありましょう。