主日礼拝説教 2022年6月26日(日)

  • 主日礼拝説教 2022年6月26日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書10章40~42節
  • 説教題:祝福の基となる

●説教音声

●みことば

まことに、あなたがたに言います。
わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。

マタイの福音書10章42節

●みことばの一滴

◎福音を受け入れる心貧しい人

「イエスはこの12人を遣わす際、彼らにこう命じられた」(5)。イエスさまが12人の弟子たちを遣わされる際に語られた言葉を学んできました。今回はその最後となります。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」(40)。
「あなたがた」すなわちこの12人を受け入れる人は、イエスさまを受け入れるのである、そしてイエスさまを受け入れるということは、天と地の造り主、まことの神さまを受け入れるのだ、と言われたのです。
神さまを受け入れる、ということが、この12人を受け入れることによって実現する、と言われたのです。ペテロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネたち12人を受け入れる、ということは、今日でいうならば、御言葉を宣べ伝えている伝道者、牧師を受け入れるということでしょう。さらには12に象徴されている新しい神の国である教会を受け入れるということでしょう。それが神さまを受け入れる道をひらくといわれるのです。

12人とはどのような人物だったのでしょうか。すでに10章2節からの個所で私たちは学びました。また12人に象徴されている「教会」はどのような姿なのでしょうか。パウロは手紙の中で次のように語っています。

「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(第一コリント1・26,27)

神さまを受け入れるためには、この12人を、そして伝道者や牧師、教会を受け入れなければならない。伝道者や牧師も決してこの世から見て知者というわけではない、教会に集う兄弟姉妹も、この世的に決して知者、力ある者、身分の高い者というわけではない。しかしそのような教会を受け入れることが、神さまを受け入れる道をひらくのだ。それは、知恵ある者や強い者を恥じ入らせるためである、とパウロは語ったのです。

魅力のあるもの、知恵に優れているもの、力強いもの、輝いているものを受け入れることは、たやすいことでしょう。しかしこの世で価値あるもの、すばらしいものを提供して、その魅力で人びとを教会へ、イエスさまへ招くというのは福音宣教とは少し違うようです。むしろ、この世から見れば価値がないかのように見えるもの、貧しさや弱さをさらけ出して、その貧しさや弱さにもかかわらずそれを受け入れる人が、神さまを受け入れることになる、とイエスさまは言われたのです。私たちは本当に神さまを受け入れる者とされているでしょうか。

◎人びとの祝福の基となる

「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」。

別の箇所で「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25・40)とイエスさまは言われました。そこでは小さい者への愛に生きることは、イエスさまへの愛に生きることである、と隣人への愛に生きるようにと語られました。それに対して今朝のこの個所では、小さい者であるあなたに愛をかたむけてくれた人は、その報いを失うことはない、と言われました。つまり、イエスさまを信じる者は、神さまの祝福の注ぎ口のようなものであって、そのあなたがたをどう取り扱うかによって、人びとの祝福に違いが生まれる。それほどに、あなたがたは大切なものなのだ、と言われたのだと思います。
イエスさまを信じる者はこの世においては小さなものだけれども、その取り扱い方によって神さまの祝福が左右されるのだ、というのです。ある先生は私たちみんなに「取扱注意」の札が貼っているのだ、といわれました。もちろん私たちが高慢になっていいと語っておられるのではありません。私たちは小さい者なのです。
その小さな存在である私たちへの限りない励ましが語られているのだと思います。

先日健康診断がありました。採血の時に看護師さんが私の保険証の事業所名に「世界福音伝道会」と書いてあるのを見て「福音というとキリスト教関係の方ですか?」と尋ねてくださいました。はい、牧師です、と応えると、娘が近江兄弟社に学んでいるのです、と親しく話してくださいました。すこし採血の注射が優しかった、ということはなかったかもしれませんが、あたたかい気持ちがしました。そんな時、私たちは、ああこの方にも神さまの祝福がそそがれようとしているのだ、と信じることができるのです。「預言者の報い」「義人の報い」と同じ報いを受けるというのですから、イエスさまを信じる者の受ける祝福のほんの一部を受けるというのではなく、そっくりそのままの祝福を受ける、というのです。なんと気前のよい神さまでしょうか。私たちはそんな祝福の基となるように世界に遣わされているのです。

●祈り

  • へりくだって神さまを受け入れる者とならせてください。
  • 神さまの祝福の基であることに感謝します。この一週間も神さまの祝福を届けるために私を遣わしてください。

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