主日礼拝説教 2022年1月16日(日)

  • 主日礼拝説教 2022年1月16日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書7章6節
  • 説教題:聖なるものを喜ぼう

●説教音声

●みことば

私はあなたのさとしの道を、どんな宝よりも楽しんでいます。

詩篇119編14節

●みことばの一滴

◎愛することの限界と祈り

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません・・・」(6)。

動物愛好家からの厳しい批判が予想される言葉ですが、聖書も時代と文化の限界を持っているということでしょう。教会はけっして「犬」「豚」をことさら汚れた存在としているのではなく、またそのような言葉をもって、人びとを否定しようとしているのではありません。
「自分の目から梁を取り除きなさい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる」(5)とイエスさまは言われました。しかしいくら自分の目の中の梁、すなわち大きな罪に気づき、主の前に悔い改めたからといっても、兄弟の目からちりを取り除くことがうまく行くことばかりではありません。ときに、厳しい反応を受けることもあるでしょう。あなたの目のちりを取り除かせてください、あなたには福音が必要です、あなたも神さまの恵みの御手の中にあります、とお伝えしても、そのような「聖なるもの」「真珠」を受け止めてくれなかったり、反発されたりします。それこそ、足で踏みつけられたり、向き直ってかみ裂かれることにもなるのではないでしょうか。
伝道する、愛するということは、そういう目にも会うということです。そのような苦しみに出会ってもなお頑張りなさい、と主イエスさまは言われず、与えるのをやめてもよい、投げなくてもよい、限界が来たならば、そこですべてをお委ねすればよい、と言われているのではないでしょうか。
7節以降に祈りの勧めが語られています。「求めなさい。そうすれば与えられます」。自分の言葉に限界がある、そうであれば祈ればよい、その祈りにイエスさまが答えてくださる、私たちが限界を覚えてストップしてもイエスさまは限界を越えてくださいます。足で踏みつけられても、かみ裂かれることになっても、ご自身の道を前進してくださいます。そうしてくださったのが十字架でしょう。
神さまを信じるということは、神さまに祈る者となる、ということです。それは自分の限界を知り、その限界を越えてまでも生きようとする人間の願望から自由になり、すべてのことを担って下さる全能の神さまにお委ねして生きることです。

◎神の恵みに敏感に

「犬」「豚」という言葉が連続して聖書に登場するところがもう一カ所あります。

「『犬は自分が吐いた物に戻る』、『豚は身を洗って、また泥の中を転がる』という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。」(2ペテロ2・22)

この「犬」や「豚」という言葉で語られているのは、まだ福音を知らない人たちのことではなく、信仰を持ったけれども、そこから離れてしまった人びとのことを指しています。せっかく「聖なるもの」「真珠」をいただいたのに、その価値を知らず捨ててしまった人たちのことです。
聖なるもの、真珠を与えられても、それを受け止めずかえって反抗するのは、なにも信仰に生きていない人たちばかりではありません。信仰に生きはじめても、その価値、神さまの恵みの大きさ、その輝き、すばらしさに気付き続ける、より深くその価値を知り続けることは、そう簡単なことではないのです。初代の教会もそうでしたし、歴史の教会はみなこの戦い、あるいは痛みを経験しています。現代の教会に生きる私たちは、果たしてこの福音の、神さまの恵みの深さをどれだけ知り、味わい、その価値を大切にしているでしょうか。神さまの恵みに鈍感にはなっていないでしょうか。

自分の目の中の梁に気付くことができない私たちのために御子イエスさまは十字架に架かってくださいました。私の罪は神さまのいのちによってしかあがなわれることのないほどの大きなものだったからです。私たちは十字架に出会い、自らの目の中の梁を知らされました。そして同時に神さまが、自らのいのちを捨ててまでも私たちを救いたいと願われました。私たちは主の十字架に出会い、神さまの無限の愛に出会います。
十字架の愛、その「聖なるもの」「真珠」の価値の大きさを知ることと、自らの目の中の梁の大きさを知ることとはセットです。自分が罪びとの頭であるということを知って初めて、神さまの愛の大きさを知るのです。また神さまの愛の大きさを知り、自分がどれだけ深い罪びとであったのかを知るのです。そうして日々、神さまの恵みに敏感に生きる者となるのです。

使徒の働き5章に献げものことで不正をしたアナニアとサッピラという信仰者が、その不正の発覚とともにたちどころに死んでしまう、という恐ろしいことが起こったと記されています。理解に苦しむ出来事ですが、もし本当に神さまが聖いお方であるならば、その神さまの聖さの前に罪びとはみなこうなって当然のことなのだと思います。アナニアとサッピラに限らず私たちも、ひとたび神さまの聖さが発動されるならば、たちどころに滅んで当然の者なのではないでしょうか。大切なことは、そうであるにもかかわらず、今こうして生きているという現実は、「生きている」ということだけですでにそこに神さまの愛、恵み、赦しが働いている、ということではないでしょうか。今こうして生きている、生かされていることにすでに、聖なるもの、真珠をいただいているのです。この神さまの恵みに敏感であり続けたいと思います。

●祈り

  • 自らの言葉の限界を知り、また愛の限界を知り立ち止まる勇気、そして主にゆだねる信仰を与えてください。主がまことの神さまであり、全能者であることをわきまえることができますように。
  • 生かされていることに、神さまの無限の愛と恵みを知り、その価値に敏感になることができるように。感謝に生きる者とならせてください。

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