主日礼拝説教 2021年7月18日(日)

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章27~32節
  • 日付:2021年7月18日(日)
  • 説教題:人間を生きる

●説教音声

●みことば

イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

ヨハネの福音書2章2節

●みことばの一滴

◎結婚の聖性~神さまは神さまのご栄光と、人間の幸福と繁栄のために結婚を定めてくださった

全ての創造物をご覧になり「良かった」「非常に良かった」(創世記1章)と語り続けて来られた創造主である神さまが、2章18節ではじめて「良くない」と言われました。ただ一つ良くないこと。それは人がひとりでいることでした。それで神さまはさまざま被造物の中に「ふさわしい助け手」を見つけるようにと、人を導かれましたが、人にはふさわしい助け手が見つかりませんでした。見つからなかったので神さまは、人に深い眠りを下し、人のあばら骨の一つを取って、ふさわしい助け手をあらたに創造されました。人は、その新しく創造された人格を心から喜びました。こうして人は造られた新しい人格と一体となり、この地にあって幸福と繁栄のために生きるようにしてくださいました。人は「ともに生きる」存在、すなわち「人間」として生きるようになりました。互いの間には何の隔てもなく、ただ神さまが二人の人生の土台であり根拠でした。

◎姦淫~結婚の聖性を破壊する人間の罪

しかし間もなく人間は罪を犯します。それは神さまとの間に隔ての壁を造ることであり、また人と人との間にも隔ての壁を生み出すことでもありました。こうして結婚の聖性が破壊される道が始まりました。結婚は神さまがその土台であり根拠であるという聖なるところから転落し、人間の欲望と都合の中でコントロールされるものとなったのです。

結婚の聖性が破壊される事態は「姦淫」という罪に象徴されます。

姦淫とは、すでに共に生きる関係が生まれている他者の幸せ中に、自分勝手な欲望をもって乱入し破壊することです。「情欲を抱いて女を見る者」(28節)という聖句の中の「女」とは、すでに婚姻関係が成り立っている女性のことです。「情欲」という言葉も、他者の幸せを破壊する情欲のことであって、正しい結婚生活の中における肉体の健やかな交流を否定しているのではありません。また人が性的欲情を持つことは健康なことであり、それをいたずらに否定することは聖書の語るところではありません。神さまは心身ともに、人間の幸福と繁栄を願っておられるのです。

この幸福と繁栄を破壊する姦淫の罪の始まりは「目」であり「手」であると主は言われます。そうであれば見ることが出来ないように、異性の姿を隠してしまえばよいのか。イエスさまは、自らを罪に誘う(かのように思う)他者をコントロールするのではなく、罪を犯す自分自身を戒めるようにと、厳しく言われました。

またもう一つの姦淫として、当時一般的な制度となっていた離縁があると言われました。女性の人権の低い時代、女性はまるで物のように扱われていました。男性が気に入らなくなれば、離縁状を書いて追い出すことが行われていたのです。「情欲を抱いて女を見る」ことが、他者の幸せな家庭を破壊する罪であるとすれば、こちらは、自分勝手に自分の家庭を破壊する罪、と言えるでしょう。自分の家庭だから、自分の好きなようにするのだ、と人は言うのかもしれません。確かにそうかもしれません。しかしそこには神さまが家庭の土台であり、根拠であるという視点は失われています。俗物と化した結婚の残骸があるだけです。そのようなことでどうして人生の幸福を生きることが出来るでしょう。

◎結婚を、そして家庭を祝福する十字架の主、復活の主

さて、イエスさまは「律法学者、パリサイ人にまさる義」に生きるようにとキリスト者を招かれました。もしここで姦淫者、離縁者を一方的に裁くことが、この聖書の言葉であるとすれば、それは「律法学者、パリサイ人の義」に生きているだけでしょう。ではそれにまさる「キリスト者の義」とは一体何でしょうか。

「男にとって一番かっこいいことは、一人の女性を生涯かかって愛し抜くことである」「女にとって一番美しいことは、一人の男性に生涯かかって仕えることである」。結婚式で時折語ることにしています。しかし現実はたやすいことではありません。「その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限り」互いに「固く節操を守ること」を約束するか、との問いに、胸を張って応え、神さまの前に誓っても、人生の荒波は圧倒的な力で、その決意を揺さぶる事態へと私たちを導きます。有名なキリスト者の中にも、離婚を経験した人たちがいく人もおられます。

イエスさまのまわりには、様々な事情の中で一人で生きることになった女性たちが集まっていました。彼女たちはイエスさまのもとに自らの生きる場所を見いだしました。イエスさまに従った歴史のキリスト教会は、様々な事情で一人で生きることとなった女性たちへの援助を惜しみませんでした。それは、本来幸福を生み出すはずの家庭において、傷つき倒れる人びとのために、主イエスさまが十字架に架かってくださったこと、また復活してともにいてくださることを信じたからです。私たちの主イエスさまは、どんなに愛に行き詰まり、愛に傷ついた者であっても、再び立ち上がり生きる道があるのだ、と招いてくださるお方だからです。

姦淫の罪を容認しているのではありません。結婚の聖性を私たちはいつまでも大切にしなければなりません。しかし同時に、その結婚がたとえ敗れたとしても、神さまの愛は変わらない、どのような事態に陥っても再び立ち上がって生きる道があると、新しい義に生きる道を語る言葉を、教会は主から託されているのです。

●祈り

  • 隣人の家庭の幸福も、自分の家庭の幸福も、ともに大切にすることが出来るように助けてください。
  • 愛に傷ついた人びととともに生きる教会であり続けさせてください。

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