主日礼拝説教 2021年5月2日(日)

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章1~12節
  • 日付:2021年05月02日(日)
  • 説教題:心貧しき者の幸い

●説教音声

●み言葉

心の貧しい者は幸いです。

天の御国はその人たちのものだからです。

マタイの福音書5章3節

●み言葉の一滴

◎心貧しい者に幸いを語ってくださる主

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。・・・」(イザヤ61・1~3)

私たちの主イエスさまは、心の貧しい者に幸いを語ってくださいます。心の貧しい者は幸いである、あるいは心の貧しい者が幸いである、と語ってくださいます。

心が貧しい。この「心」とは原文で「霊」とも訳される言葉です。「貧しい」とは、極度の貧しさ、誰かに物乞いをしなければ生きることが出来ないほどの貧しさ、のことです。つまり霊的に極度の貧しさの中にある、そのような者こそ「幸い」であると語ってくださったのです。

もちろん心が貧しい、霊的に乏しいなどということは、それ自体幸いでも何でもないでしょう。この世界の基準からすれば、霊的な貧しさは、それ自体不幸をもたらすものなのではないでしょうか。しかし主イエスさまだけはそのような者に向かって、幸いである、と語ってくださるのです。

主イエスさまはどのような状況の中にあっても、幸いである、と語ってくださるお方なのです。それが天と地を造られたまことの神、十字架と復活によって私たちへの愛を明らかにしてくださった慈しみ深い神さまのお姿です。

どんなに否定的な心の状況であっても、主イエスさまは私たちに幸いを語ることのできるお方です。主イエスさまこそ、十字架において最も貧しい所に立ってくださったからです。主イエスさまだけが、最も貧しい姿に徹してくださったからです。

主イエスさまは、同胞から訴追され、弟子たちに裏切られ、肉体的にも精神的にも極度の貧しさの中に身を置いてくださいました。十字架にかかりつつ、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ぶほどに、父なる神さまとの断絶、すなわち霊的な貧困の中に立ってくださったからです。

もし私たちが、苦しみの中にある友に、幸いを語り得るとすれば、私たち自らも「心の貧しさ」に立たなければなりません。あるいはすでに心の貧しい者であることを、素直に受け入れ、その貧しさに徹することが、苦しむ友に真実の愛を語る者となる道なのです。

◎主に信頼する幸い

「天の御国はその人たちのものだからです。」

天とは、マタイの福音書では「神」を表します。御国、国とは「支配する」という意味です。神さまのご支配の中に生きる者となる、それがここでの幸いの道です。

神さまのご支配の中に生きるためには、心貧しくなければならない。逆に心が豊かであれば、あるいは霊的にいわゆるレベルが高いと自負するとすれば、そこには神さまの支配はありません。どこまでも自己中心の混乱があるだけです。

この「心が貧しい」ということは謙遜の徳といったものではありません。真実のへりくだりのことです。徹底して自らの貧しさを受け止め、その貧しさの中に立ち続ける者だけが、神さまのご支配に依り頼み、神さまの豊かな愛のご支配の中に、平安の中に生きることが出来るのです。

エジプトで奴隷であったイスラエルの民を導き出すようにと神さまにお声をかけていただいたモーセは、繰り返し、その申し出を辞退しようとしました(主エジプト4章10~17節)。自らの貧しさ知っていたからです。また預言者イザヤは神さまから召しを受けた時、自らが滅んでしまうと恐怖しました(イザヤ6章5節)。そのようなイザヤだからこそ慰めの言葉を語ることが出来たのでしょう(イザヤ57章15節)。使徒ペテロは自信にあふれたときには数々の失敗をしました。しかし自らの貧しさを知ったペテロに復活の主は再びお声をかけてくださいました。そのときペテロは、自らが愛することさえも主がご存じですと告白しました(ヨハネ21章15節~)。使徒パウロは、生粋のユダヤ人、優れた学識と経験にあふれた人物でしたが、主イエスさまにお出会いしてからは、十字架以外は知るまいと決心し、心貧しく生きる道に歩む者と変えられました(第一コリント2章3節)。もし誇る必要があるならば弱さを誇るとまで語ります(第2コリント11章30節)。

謙遜の徳に生きるというのであれば、それは依然自己中心の中にあるのです。しかしこれらの人びとは、自分自身に絶望した人たちでしょう。自分に絶望しているからこそ、主イエスさまの愛がなければ生きていけないことを誰よりも知らされた者でしょう。ただひたすら主イエスさまの愛にすがり、主イエスさまにお頼りしながら生きることを願った人たちでしょう。ひとすじにイエスさまを見上げて生きることを、人生の喜びとした人たちでしょう。そのような彼らだからこそ、主の愛を宣べ伝える者としていただいたのです。何と幸いな人生なのでしょう。

引き続き学ぶ「山上の説教」のすべては、この「心の貧しい者」だけが生きることのできる道です。

「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第2コリント12章10節)

●祈り

  • 心貧しき者の幸いを教えてください。
  • 神さまに依り頼む幸いに生かしてください。

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