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めぐみのパンくず

目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。”   マルコ8:18

◎イエスさまは二度、パンの奇跡を表わしなさいました。6章では「五つのパンと二匹の魚」で、8章では1~10「7つのパンと少しの魚で」、6章のパンの奇跡はユダヤ人を中心に、8章では異邦人(デカポリス地方には大勢の異邦人が)のために奇跡を表わされたことを見ます。イエスさまはすべての人々の命のパンなのです。

◎ダルマスク地方に来られた時、パリサイ人がやって来て天からのしるしを求めます。不信仰はしばしば見えるところのしるしを求めます。「ユダヤ人はしるしをこい」と使徒パウロは言いましたが、イエスさまは「絶対に与えられない」vs12と言われました。

◎そして弟子たちに、「パリサイ人、ヘロデのパン種に十分気をつけるように」と言われました。弟子たちはパン一つしかもっていなかったので、食料に心配でした。その時に言われたのです。

◎パリサイ人のパンだねとは偽善です。宗教家としての偽善ぶりをイエスさまはマタイの福音書6:1~8で糾弾し後には決して「まねるな」と命令なさいました。ヘロデのパンだねとはヘロデの饗宴に象徴されます。そこには、不品行、不敬虔(装う)、悪意(心が膨れるの意)があります。

◎イスラエルの民は過ぎ越しの祭りの間、種なしパンを食しました。信仰者の心はパリサイ人やヘロデのパン種でなく、いのちのパンであるイエスさまを食するのです。

めぐみのパンくず

そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け」と言われた。

                マルコ 7:34

◎すると、彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになったVs35。とみ言葉はつづきます。聾唖者の耳が開き、もつれていた舌がまわり出したのです。音声言語獲得前に失聴したゆえの聞こえない、話せない。

この人は、ずいぶん苦労したことでしょう。

◎イエスさまの癒しは、神の前における人間の姿の回復を表わしています。神の声が聞こえない、神に向かって祈れないことの。

◎イエスさまはこの人の両耳に指を差し入れ、またつばきをして舌にさわられます。イエスさまに触れられることは何と幸いなことでしょう。そして「エパタ・開け」と言われました。

◎人間の事をギリシャ語でアントゥロ―ポスと言います。「上を見上げる者」の意味です。しかし、罪人には天は閉じたままです。イエスさまは天を開くためにこの地上に来てくださいました。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時「天から聖霊が鳩のよう折りて来」また父なる神のみ声もありました。「これはわたしの愛する子」マタイ3:16,17と。

◎イエスさまは父なる神のその御声が聞こえなかった者に、心の耳を開き神の子どもの確信をさせ、祈ることもできなかった者の舌をまわるようにしてくださったのです。

「エパタ」天ひらかれ、み言葉が開かれ、祈りによる父なる神との交わりが開かれたのです。

めぐみのパンくず

主よ、そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。”

マルコ7:28

◎五つのパンが群衆に配られた後、12かごにいっぱいになったパンくず。そのパンくずの恵みがガリラヤを超えてツロ、フェニキヤまで届いた恵みの出来事です。

◎ギリシャ人の女の幼い娘が悪霊に取りつかれていたのです。イエスさまの噂を聞いてやってきました。母親の必死のとりなしが始まります。

◎マタイの並行記事では女の呼びかけにイエスさまは無視されているところから始まります。しかし女は引き下がらず、足元にひれ伏して懇願するのです。いや懇願し続けるのです。

◎しかし、イエスさまの返事は「こどもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない」との突き放した応えでした。

◎しかし、女はイエスさまのことばに賢く冷静に返答します。「食卓の下の小犬でも・・パンくずをいただきます」と。ユダヤのラビたちは異邦人をしばしば横行する野良犬に表現しましたが、ここで言われている小犬は飼犬のことです。

◎この頃は、ナイフもフォークもナプキンもありませんでした。子どもたちは食べる前にパンで手を拭き、そのパンを食卓の下に落とします。それを小犬が食べたのです。

◎イエスさまは女の信仰を試され、その真実をご覧になられました。

 キリスト者の祈りは問題の中で、「小犬もパンくずをいただきます。」と迫る存在なのです。

めぐみのパンくず

こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。”      マルコ7:13

◎イエスさまは、パリサイ人、律法学者に厳しいお方です。イエス様一行の行動に絶えず目を向け、隙あらば困らせようとするのです。今回は弟子たちが食事の時、手を洗わなかったことが発端となりました。

◎彼らは手洗いの儀式(彼らは几帳面に)に固執していました。人間が作った儀式で人を縛るのです。イエスさまはそれよりももっと大事なことがある、それは彼らが神の戒め、特に父母を敬え(十戒の第五戒)をないがしろにしていたことです。両親を養うものさえ、ささげ(コルバン)させていたのです。神さまのお心からは遠くへだたった教えに。

◎その後、イエスさまは群衆に、そして弟子たちに、外側の問題以上に内側の問題の重要性について話されます。外からのものは人の心を汚しはしないが、人の内側から出てくるものが汚すのだと。その内容は実に12のリストです(vs21,22)。一つ一つ、じっくりと見つめていくと「身体の内を衝撃が通り抜けるリスト」です。どの一つも、完全に解放されているものはないと思います。しかしです。

◎イエスさまの指摘に頭をたれる人は幸いです。この耐えられない重荷を背負って下さったのもイエスさまであれば、その汚れを赦し引き受けて下さったのも、その醜い心をきよめ住んで下さるのもイエスさまだからです。

めぐみのパンくず

イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また二匹の魚もみなに分けられた。”  マルコ7:41

◎モーセが荒野で40年天からのマナでイスラエルの人々を養ったように、多くの群衆に食べ物を与えられたイエスさまの姿です。ヘブル人への手紙の主題は「優る」ですが、モーセにまさるお方としてのイエスさまを福音書の記者は表しています。

◎イエスさまのお話に耳を傾けた群衆にイエスさまは食事の心配もされました。弟子たちに「あなたがたの手で」与えよ。と言われます。五つのパンと二匹の魚しかありません。しかし弟子たちは命令に従いました。群衆を座らせてイエスさまはパンと魚を手に取り天を仰いで祝福されます。

◎配っても、配ってもなくならないパンと魚、五千人の男たち、女、子供を入れるとどれほどになったでしょう。その群衆の胃袋を満たしたのです。おまけに12かごにあまったのです。

◎残りのパンくず、魚はどうされたのでしょう。それは現在の私たち信仰者にも与えられ続けているのです。「わたしは命のパンです。」と言われたイエスさまの恵みが。このいのちのなるお方を食した者(信じて受け入れた者)は天からのマナである、イエスさまを永遠のいのちの食物としたのです。ですからある人々のようにこの奇跡を疑ったりすることは決してありません。

◎最後にこの場面とヘロデの宴会が対蹠的に書かれています。そのことも心したいと思います

めぐみのパンくず

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」”

                マルコ10:15

◎ユダヤ人の母親たちは偉大で有名にラビに子供を祝福してもらいたいと願っていました。イエスさまは偉大なラビとして目に映っていたのでしょう。

◎しかし、弟子たちは止めました。この時期、イエスさまは十字架への道に邁進されていました。そのよう中、弟子たちにはそれどころではないと言う緊張感が漂っていたのかもしれません。

◎しかし「幼子を我に来ることを許せ」文。とイエスさまは言われました。宗教の開祖と言われる人で、他にイエスさまほど子供を愛されたお方がいたでしょうか。なぜイエスさまは愛されたのでしょう。

◎①幼子には謙遜があります。自己を誇示する子供がいるとすればそれは大人のせいでしょう。②幼子は従順です。従うことを教えられやすいのです。③信頼がある。権威を受容し、」また誰をも悪人と考えないで誰とでも仲良くすることができる。④幼子は長く覚えていない。悪意をいだき、恨みを持ち続けることを習っていない。不当に取り扱われた時ですら、彼はそれを忘れしかも全く忘れてしまうのです。

◎幼子の性質に倣いつつ、キリスト者は神さまに対して謙遜に、従順に、信頼しつつ、人の悪を思わず。ロマ12:17イエスさまのふところにいだかれる存在でありたいと願います。

めぐみのパンくず

しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていた。”       マルコ 6:16

◎ヨハネの殉教の記録です。イエスさまを人々はいろいろ噂していました。「エリャだ」「預言者の一人だ」また「バプテスマのヨハネ」の再来ゆえあのような力ある働きができるのだと。

◎首をはねたヘロデ王も「バプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と言いました。事件は誕生日会の席で起こりました。ヘロデは腹違いの兄弟ヘロデ・ピリポの妻、ヘロデヤを自分の妻にしており良心の呵責がありつつヨハネの話は喜んで聞いていたのです。

◎舞台は変わり、祝宴の席で、ヘロデヤの娘の舞いに褒美を勧めたところ娘は「ヨハネの首」を所望します。優柔不断なヘロデは人々の顔を恐れて娘の願いに応えます。

◎恐ろしいのは護衛兵が、切り取られ盆にのせ持ってきたヨハネの首を母のヘロデヤに渡すのです。両目を覆いたくなるような光景です。

◎バプテスマのヨハネは労につながれた時、不安になりました。イエスさまのところに弟子を遣わし「来たるべき方はあなたでしょうか、それとも他の人を待つべきでしょうか」と尋ねさせます。

イエスさまはご自分の御業を語り(ルカ7:22,23)「誰でもわたしにつまずかない者は幸いです。」と答えられました。この後、ヨハネの心は預言者としてぐらつくことはなかったと思います。

◎ヘロデヤ、娘のサロメは何とおぞましい女性でしょう。人の心の恐ろしさを見せられる場面です。

めぐみのパンくず

また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持っていてはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金を持って行ってはいけません。”      マルコ6:8

◎ゲネサレの町の人や、カペナウム、ナザレの町の人々に信じる人々が少ないのを見て「村々に向かわれた主は、十二弟子を二人ずつ遣わされることになりました。

◎イエスさまは初めに「汚れた霊を追い出す権威」を与えられます。「イエスさまは遣わす者に簡単にこの権威を与えておられる。『奇跡中の奇跡、不思議中の不思議』とある注解者は記しています。

◎次に持ち物ですが「パンも袋も、金も」持って行くなと言われました。一つにこの派遣が小旅行であったこと、季節は過ごしやすい秋だったとからでしょう。

◎しかし、「杖一本は持って行け」と言われます。杖と言えば、まずモーセの杖を思います。頑なにイスラエル人を解放しなかったパロの前で、この杖は神さまの力がどんなものであるかを顕します。第二に詩篇23篇で羊飼いの杖です。迷える羊を守り、群れから離れないために羊飼いは杖を使いました。ダビデは自分を迷える羊に譬え「あなたの杖とあなたの鞭、それが私の慰めです。」と告白しています。杖は神さまの権威を表わしているのです。

◎この権威に押し出されての伝道は「悔い改め」「悪霊の追い出し」「病の癒し」の結果が現れました。私たちはイエスさまの与えて下さる権威にしばし、信仰の思いをはせたいものです。

めぐみのパンくず

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の教理、親族、家族の間だけです。」”             マルコ6:4

◎イエスさまの郷里、ナザレでの出来事です。安息日に会堂で教えられました。そこで起こった出来事の中で二つの「驚き」に目を向けます。

◎まず、聞いた多くの人々が驚きです。「大工ではないか、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン兄弟ではないか」、良く知っている男だと言うのです。 詳訳聖書には彼に憤慨し、不満を示しとあります。~わかっている、何をいまさら大工の子せがれが!と言ったところでしょうか。4節で「預言者は故郷では敬われず」と書かれています、イエスまでさえも、家族伝道(召天後、家族は信仰に入りますが)郷里伝道は難しいのかと思わされるところです。

◎イエスさまも驚かれました。何に驚かれたか「不信仰に」です。これは強い言葉で非常に驚くなのです。郷里の人々が「驚いた」と言う言葉とは違った原語が使われており、ここでは悲しみの意味で驚いておられるのですが。

◎もう一か所では大きな喜び、感動すら覚えて驚かれた箇所に使われています。ローマの百人隊長の信仰です。大切な僕が病気になった時、イエスさまに長老たちを遣わします。イエスさまは連れ立って百人隊長の家に行かれる途中、その姿を見つけた百人隊長は友を送って、自分にイエスさまを迎える資格がないこと告げ「ただ、おことばを下さい」ルカ7:7と僕の癒しのために願います。イエスさまのおことばの力を信じる信仰に驚かれるのです。

めぐみのパンくず

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実で

あり、小さい事に不忠実な人は、大きな事にも

不忠実です。“     ルカ16:10

              :

◎忠実とは、キリスト者に日々求められていることだと思います。信仰生活にかかしてはならないことに。

◎しかし、このところでイエスさまは、富について話しておられます。その内容は不正な管理人が、自分の身を守るために、実に巧妙でずるい方法をとりましたが、主人はこの管理人をほめたのです。

◎イエスさまはこの世の人でも自分の身を守るためなら一生懸命だ。まして神の国の者たちは、この世の富を用いて神の国のために賢く振る舞わなければならないと言われました。「あなたがたに言うが、この世の富を用いてでも、自分のために友達をつくるが良い。」と。

◎聖書は金銭についてその使い方にしばしば勧告を与えています。 昔の聖徒、ジョン・ウエスレ―は「多くを稼げ、多くをたくわえよ、そして多くをささげよ」と。大切に管理させていただきたいと思います。