礼拝説教から 2020年6月28日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙2章6-16節
  • 説教題:えこひいきはない

 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。(ローマ人への手紙2章6節)

 神にはえこひいきがないからです。(ローマ人への手紙2章11節)

 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。(ローマ人への手紙2章16節)

0.

 先週は、2章1-5節から、他人を裁くことについて分かち合いました。

 パウロは、1章18節以降の部分で、神様を信じない外国人たちの姿を描きました。それは、神様の民とされていたユダヤ人たちからすれば、「ほんま、そうやで」という内容でした。しかし、パウロは、そのユダヤ人たちに対して、「あなたたちも同じことをしている」と指摘しました。そして、それは、ユダヤ人たちが、他人を裁くことによってだということになるでしょう。

 裁くというのは、神様にしかできないことです。裁くことができるのは、神様お一人だけであり、私たちが誰かを裁くとするなら、それは私たち自身が神になることを意味しています。そして、私たち自身が神になるというのは、私たちが偶像崇拝の罪を犯すことです。なぜなら、偶像崇拝というのは、真の神様以外のものを神として崇めることだからです。

 ユダヤ人たちは、確かに、神様を信じない外国人たちの行いを避けていたかも知れません。しかし、ユダヤ人たちは、神様を信じない外国人たちを見下して裁きながら、根本的には、外国人たちと同じように、真の神様を神様として崇めていませんでした。

 今日は、先週の本文を踏まえて、16節までの部分を見ながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 先週の本文になりますが、パウロは、ユダヤ人たちが、神様の「正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えて」いると指摘していました。「正しいさばきが現れる御怒りの日」というのは、神様の最終的な裁きが行われる日です。そして、パウロは、ユダヤ人たちが、最終的に神様の正しい裁きが行われる日に向けて、自分のために神様の怒りを蓄えていると言っています。今日の本文に記されているのは、その神様の正しい裁きの基準とも言えるようなことです。

 パウロは、神様が、一人一人に対して、その行いに応じて報いられると言っています。具体的には、善を行う者には永遠のいのちが与えられ、悪を行う者には怒りと憤りが下されるということです。そして、そこには、ユダヤ人とギリシア人の区別がないということです。

 ちなみに、ギリシア人というのは、外国人の代表です。パウロがギリシア人という言葉によって表現しているのは、ユダヤ人を除いた全世界の人々ということです。つまり、ユダヤ人とギリシア人というのは、まさに全世界の人々ということです。そして、そこには、時代や場所を越えて、現在の私たちも含まれてくることになるでしょう。

 ユダヤ人たちは、神様に選ばれた自分たちのことを、特別な存在だと考えていました。神様からご自分の教えである律法を与えられ、その律法を持っている自分たちのことを特別な存在だと考えていました。新約聖書の時代には、ユダヤ人たちは苦しい状況にありましたが、最終的に神様の正しいさばきが行われる日には、律法に従わない外国人たち、自分たちを苦しめる外国人たちが裁かれて、自分たちが救われると信じていました。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが言っていることは、何でしょうか。それは、神様の裁きの前では、ユダヤ人たちも、その他の国の人々も、関係ないということです。ユダヤ人たちであれ、その他の国の人々であれ、神様は、一人一人に対して、その行いに応じて報いられるということです。善を行う人々には、永遠のいのちが与えられ、悪を行う人々には、怒りと憤りが下されるということです。律法を持っていても、その律法を行っていなければ意味がないのであって、反対に、律法を持っていない外国人たちでも、律法で命じられていることを自然に行っているならば、律法を持っているのと同じだということです。

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。大切なことは、熱心に善を行うということになるのでしょうか。忍耐強く善を行うことこそが救いの道であり、悪の誘惑から離れて、善を行わなければならないということになるのでしょうか。

 ローマ人への手紙全体を見る時、聖書全体を見る時、決してそうではないことが分かります。むしろ、パウロがローマ人への手紙全体を通して訴えていることは、その反対のことだと言えるでしょう。それは、善を行う者がいないということです。ユダヤ人たちも、他の国の人々も、現在の私たちも、すべての人々は罪の下にあるのであり、神様が納得されるような善を行う者は一人もいないということです。神様の教えに従って、善を行って、永遠のいのちを獲得することのできる者は、一人もいないということです。

 パウロは、神様には「えこひいきがない」と言いました。

 皆さんはどうでしょうか。えこひいきをすることは、あるでしょうか。反対に、えこひいきをしてもらうことは、あるでしょうか。あるいは、自分ではえこひいきをしているつもりはないのに、えこひいきをしてもらっている感じはないのに、周りからえこひいきを指摘されたことは、ないでしょうか。私たちは、誰もが、どこかで、何らかの形で、えこひいきというものを経験していると言えるのかも知れません。

 えこひいきというのは、誰かを特別にかわいがるということです。ちょっと不公平に感じるほどに、誰かを特別にかわいがることです。そして、そこには、何らかの理由があることになるでしょう。

 例えば、親や学校の先生の立場からすれば、どうでしょうか。勉強がよくできるとか、素直に言いつけを守るというようなことが、えこひいきの理由になったりするでしょうか。職場であれば、かわいかったり、イケメンだったりすると、上司から特別にひいきをしてもらえることがあったりするでしょうか。あるいは、世界的なレベルでは、民族であったり、人種であったりが、えこひいきの理由になることもあるでしょうか。

 繰り返しになりますが、パウロは、神様には「えこひいきがない」と言っています。そして、それは、神様が私たちをあるがままに見ておられるということに他なりません。この世界であるならば、えこいひいきの理由となるようなことを、神様は決して見ておられないということです。かわいいとか、イケメンだとか、勉強や仕事がよくできるとか、素直に言いつけを守るとか、家がお金持ちであるとか、民族や人種であるとか、この世界でえこひいきの理由となるようなものを、神様は決して見ておられないということです。私たちは、私たちの身にまとわりついている一切のものが取り去られた状態で、神様の前に立たなければならないということです。あるがままの姿で、神様の前に立たなければならないということです。そして、それは、神様が、「人々の隠された事柄」を見て裁かれるということでもあります。

 パウロは、神様の最終的な裁きの日を見つめています。そして、パウロは、その最後の日に、神様が「人々の隠された事柄をさばかれる」と言っています。パウロは、神様が人々の注目するような事柄を見て裁かれると言っているのではありません。人々の目から隠された事柄を見て裁かれるのだと言っているわけです。神様は、私たちが注目する部分ではなくて、えこひいきの理由になるような部分ではなくて、私たちのあるがままを御覧になるということです。身にまとわりついているもののすべてが剥ぎ取られた、裸の私たちを、神様は見て裁かれるということです。

 私たちは、人間の目は誤魔化すことができるかも知れません。あるいは、自分自身の目も誤魔化すことができるかも知れません。お墓の中まで秘密を持っていくことができるかも知れません。しかし、神様の前ではすべてが明らかになります。どのような隠れた事柄も、神様の前ではすべてが明らかになります。

 どうでしょうか。私たちは神様の前に立つことができるでしょうか。すべてを見て知っておられる神様の前に、堂々と立つことができるでしょうか。

 パウロは、神様の裁きについて、「私の福音によれば」と言っています。

 福音というのは、良い知らせということです。その反対に、神様の裁きというのは、神様が私たちの「隠された事柄」を裁かれることであり、私たちにとっては、恐ろしいことです。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、神様の裁きについて、「私の福音によれば」と言っているということです。

 どういうことでしょうか。それは、神様の裁きと福音が互いに矛盾するものではないということです。むしろ、神様の裁きの中で、神様の福音は同時に明らかにされているということです。

 福音によってもたらされる神様の救いというのは、罪が咎められない、隠されたままにされていることではありません。その反対に、罪が罪として明るみに出されることです。裁きが行われないことではなくて、正しく裁かれることです。神様の救いは、罪が隠されたままにされる所にあるのではなくて、裁きが行われない所にあるのではなくて、裁きの先にあるということです。神様の救いは、神様の正しい裁きを通して、罪の解決をいただくことです。

 パウロは、神様の裁きについて、それは、キリスト・イエスによってであると言っています。それは、神様の最終的な裁きが、イエス様のもう一度来られる日に、再臨の日になされることを意味しています。そして、それは、イエス様が、キリストとして、救い主として、神様と私たちとの間に立ってくださるということでもあります。すでに、私たちの罪を背負って、十字架の上で神様の裁きを受けてくださったイエス様が、神様と私たちとの間に立ってくださるということです。イエス様は、罪人である私たちの代わりに、十字架の上で神様の裁きを受けてくださったのであり、そのイエス様を「私の救い主」として信じ受け入れるすべての人々に、裁きの先にある罪の赦しを与えてくださるということです。赦された者として、神様の最終的な裁きの前に立つ道を開いてくださっているということです。そして、だからこそ、パウロは福音として、神様の裁きを語っているということです。

 大切なことは、何でしょうか。それは、真の神様でありながら、真の人となって、十字架にかかられたイエス様の前で、丸裸にされることです。十字架にかかられたイエス様の前で、自分の身にまとわりついている一切のものが剥がされて、良くも悪くも人々の注目する部分から自由にされて、丸裸になった自分を見つめることです。そして、隠された事柄のすべてが明るみに出されて、罪が明るみに出されて、その罪が赦されるために、神様の裁きを受けてくださったイエス様を、自分の救い主として信じて受け入れ続けていくことです。自分の罪のために、神様の厳しい裁きを受けてくださったイエス様によって赦されていることを覚えながら、イエス様がもう一度来られる日に向かって歩み続けることです。再臨の日に向かって、イエス様によって、神様の最終的な裁きが行われる日に向かって歩み続けることです。そして、それは、ビクビク震えながらの歩みではなくて、希望と喜びに包まれた歩みであり、同時に、謙遜を学ぶ歩みです。

 私たちはどうでしょうか。真の神様でありながら、真の人となって、十字架にかかられたイエス様の前で、丸裸になっているでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、十字架のイエス様を見上げたいと思います。イエス様の十字架の前で丸裸にされたいと思います。一切の罪が明らかにされて、その罪のために、十字架の上で神様の裁きを受けてくださったイエス様によって、愛されていることと赦されていることを覚えたいと思います。そして、新しい一週間に向かって、イエス様がもう一度来られる日に向かって、出発していきたいと思います。喜んで、そして、謙遜になって、出発していきたいと思います。

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