礼拝説教から 2020年6月21日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙2章1-5節
  • 説教題:あなたですよ

 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。(ローマ人への手紙2章1節)

 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2章4節)

0.

 先週は、1章24-32節から、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義」に対する神様の怒りの結果を分かち合いました。それは、神様が、「不義によって真理を阻んでいる人々」を自分たちの自由に任せられたということです。神様は、ご自分との関係を軽んじる私たちに対して、きつくお叱りになったり、厳しい罰をお与えになったりされたのではなくて、私たちを自由に任せられたということです。私たちがやりたいようにすることを許されたということです。現在の私たちが自由と思っているものは、実は神様からの裁きとして与えられているものと言ってもいいのかも知れません。そして、大切なことは、その自由を、自分の思いのままに用いることではなくて、神様と共に生きるために用いることです。

 今日は、2章1-5節から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 パウロは、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義」に対する神様の怒りとその結果について説明をしていました。そして、その内容を根拠にして、パウロは意見を言おうとしています。それは、「すべて他人をさばく者」に対する意見であり、その内容は、弁解の余地がないということです。パウロは、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義」に対する神様の怒りとその結果を根拠として、「すべて他人をさばく者」に対して、弁解の余地がないということを言っているわけです。そして、その理由は、「他人をさばく者」もまた「不義によって真理を阻んでいる人々」と「同じことをおこなっているから」だということです。

 パウロは、「すべて他人をさばく者よ」と呼びかけています。「すべて他人をさばく者」というのは、何だか突然出てきたような感じがしますが、いったい誰のことなのでしょうか。

 パウロの手紙を読んでいる人々はどうだったでしょうか。もしかしたら、「誰のことを言うてるんや」と思っていたでしょうか。あるいは、「そうやなぁ、他人を裁く奴って、おるよなぁ」というようなことを思っていたでしょうか。正確なことは分かりませんが、パウロは、2章17節以降の所で、この「すべて他人をさばく者」がユダヤ人たちであることを明らかにしています。

 1章18節以降の部分は、一般的に異邦人たちのことについて記されていると考えられています。異邦人というのは、ユダヤ人たちから見て、外国の人々です。しかも、ただ単に、別の国の人々ということではありません。それは、神様を神様として崇めない人々ということであり、神様の怒りを買っている人々ということであり、ユダヤ人たちが見下していた人々です。そのユダヤ人たちが見下していた人々の罪について、パウロは1章18節以降の所で記していたわけです。そして、パウロが記していることは、ユダヤ人たちから見れば、「そうそう、ほんま、なんちゅうことしとるんや」というようなことでした。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが言っていることは何でしょうか。それは、ユダヤ人たちも同じことを行っているということです。パウロは、ユダヤ人たちもまた、自分たちが見下している外国の人々と同じことを行っているのだと言っているわけです。

 パウロは、ユダヤ人たちが忌み嫌う外国人たちの行いとして、大きく分けると、三つのことを指摘していました。一つ目は偶像崇拝、二つ目は同性愛、そして、三つ目は人間関係の中における様々な悪です。

 どうでしょうか。少なくとも表面的には、ユダヤ人たちはパウロの指摘する外国人たちの行いを避けていたかも知れません。ユダヤ人たちにとって、偶像崇拝というのは、決してあってはならないことでした。同性愛も同じです。そして、人間関係における悪についても、とても気をつけていたことでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、ユダヤ人たちもまた、自分たちが見下している外国の人々と同じことを行っていると訴えているわけです。

 どういうことなのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが根本的に神様を神様として崇めていなかったということではないでしょうか。確かに、ユダヤ人たちが木や石で偶像を造って拝んでいたことはなかったでしょう。同性愛とも無縁だったでしょう。人間関係にも自分たちなりに気をつけていたかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、根本的に神様を神様として崇めていなかったということです。神様を崇めていなかったという点において、ユダヤ人たちは、彼らが見下している外国の人々と何の違いもなかったということです。

 繰り返しになりますが、パウロは、突然のように、「すべて他人をさばく者よ」と呼びかけています。そして、この所から、裁くという言葉が繰り返して出てきます。

 裁くというのは、どういうことでしょうか。

 卒業して何年かが経ちますが、私が神学生だった頃、元魚屋さんだった先輩がいました。その先輩は、時々、半分冗談で、半分本気で、「僕はさばいてばかりいる」と言っていました。それは、かつて魚を捌く仕事をしていただけではなくて、現在も他人を裁いてばかりいるということです。

 聖書の中の裁くというのは、もちろん、魚を捌くことではありません。しかし、まったく関係のないことでもないということを思います。

 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、今日の本文の中で「さばく」と訳されている言葉を、ギリシア語の辞書で調べると、第一に記されている意味は「分ける」ということです。まさに、魚の身を切り分けるようにとでも言えばいいでしょうか、裁くというのは、相手と自分を切り分けるということです。

 そして、その「分ける」という意味の後には、「優っているとする」という意味が記されています。相手と自分を切り分けた後、その自分を優っているとするわけです。それは、「あの人たちと自分とは違う」、そう思いながら、上から目線で相手を見下すということです。そして、それは、相手を罪に定めるということにつながります。相手に有罪判決を下すということです。

 パウロは、この裁くことを特別に問題として取り上げています。どうしてでしょうか。それは、この裁くことそのものが、神様の前におけるユダヤ人たちの根本的な問題だったからではないでしょうか。

 すぐに忘れてしまいがちなことですが、裁くというのは、神様にしかできないことです。神様だけができることです。私たちは裁く側にあるのではありません。反対に、裁かれる側にあるわけです。そして、その裁かれる側にある私たちが、裁く者になるとしたら、それは何を意味しているでしょうか。それは、私たちが自分で自分を神としていることに他なりません。私たちが誰かを裁くというのは、私たちが神になっているということです。そして、それは私たちが偶像崇拝をしているということを意味しています。なぜなら、偶像崇拝というのは、真の神様以外のものを神とすることだからです。ユダヤ人たちは外国の人々を裁きながら、実は自分が神になっていたのであり、真の神様以外のものを神とする偶像崇拝の罪を犯していたということです。ユダヤ人たちは、自分たちが見下している外国の人々と、根本的に同じ罪を犯していたということです。神様を神様として崇めていなかったということです。

 繰り返しになりますが、パウロが「すべて他人をさばく者」と呼んでいるのは、表面的にはユダヤ人たちのことです。

 しかし、そうすると、どうなのでしょうか。「すべて他人をさばく者」が、パウロの時代のユダヤ人たちのことであるならば、現在の私たちとは何の関係もないことになるのでしょうか。他人を裁いているのは、あくまでもパウロの時代のユダヤ人たちであって、現在の私たちには何の関係もないのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 パウロは、「すべて他人をさばく者よ」と呼びかけた後、その「すべて他人をさばく者」が誰であるのかを、すぐには明らかにしていません。その代わりに「あなた」と続けています。しかも、「あなたがた」ではなくて、「あなた」です。パウロは、「『すべて他人をさばく者』というのは、『あなた』のことですよ」と言っているわけです。「あなた」こそが、「すべて他人をさばく者」に他ならないと言っているわけです。パウロは、ただ単に、ユダヤ人たちに対してだけではなくて、ローマの教会の一人一人に対して、「あなたのことですよ」と訴えているということです。そして、時代や場所を越えて、パウロの手紙を読む一人一人に対して、もちろん、現在の私たち一人一人に対しても、「あなたのことですよ」と訴えているということです。

 繰り返しになりますが、他人を裁くというのは、自分で自分を神とすることであり、偶像崇拝です。それは、神様を神様として崇めないことであり、神様のお怒りになることです。その神様の怒りの前で、私たちは何の弁解もすることができません。そして、パウロは、そんな私たち、「すべて他人をさばく者」に対して、悔い改めを呼びかけています。

 先週の礼拝の中で、神様は私たちを自由に任せられたと分かち合いました。その自由というのは、神様が、一方で、裁きとして与えられたものであり、一方で、私たちを愛するが故に与えられたものだということを分かち合いました。神様は、私たちが、与えられた自由を用いて、神様の方に向き直って、神様と共に生きることを願っておられるのであり、そのために待ち続けていてくださるということです。そして、それは、神様が慈しみ深い方であり、私たちの悔い改めを願いながら、誰よりも寛容に忍耐していてくださるということです。

 パウロは、「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導く」と言っています。私たちは、神様が怖くて、「このままではとんでもないことになる」と思って、悔い改めるのではありません。そうではなくて、神様の慈しみに気づかされて悔い改めるのだということです。私たちを愛して待っていてくださる神様の豊かな慈しみに気づかされて悔い改めるのだということです。神様の方へ向き直り、神様と共に生きる道へと導かれていくということです。そして、その神様の慈しみが最もはっきりと明らかにされているのは、御子イエス様の十字架です。愛する私たちとの関係が守られるために、私たちの罪を背負ってくださったイエス様の十字架にこそ、私たちに対する神様の慈しみは明らかにされているということです。

 私たちはどうでしょうか。いえ、他の人のことは置いておきましょう。「私」はどうでしょうか。誰かを裁いていることはないでしょうか。家庭の中で、学校や職場の中で、地域社会の中で、あるいは、教会の中で、誰かを裁いていることはないでしょうか。自分だけは違うと思い込みながら、実は自分も同じことをしているようなことはないでしょうか。自分もまた裁かれる側にあることを忘れて、神様を信じようとしない人々を上から目線で見下しているようなことはないでしょうか。そして、神様の前で頑なになって、神様の豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじていることはないでしょうか。

 ウロが「あなた」と呼びかけているのは、まさに「私」に対してであることを覚えたいと思います。そして、イエス様の十字架を見上げながら、私たちとの関係を大切に考えていてくださる神様の慈しみと忍耐と寛容を覚えたいと思います。自分もまた、赦された罪人に過ぎないことを覚えながら、裁く者となるのではなくて、愛する者とならせていただきたいと思います。

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