礼拝説教から 2020年6月14日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章24-32節
  • 説教題:自由に任せられた

 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(ローマ人への手紙1章28-32節)

0.はじめに

 先週は、ローマ人への手紙1章18-23節から、神様の怒りについて分かち合いました。それは、「不義によって真理を阻んでいる人々の不敬虔と不義」に対して明らかにされている神様の怒りです。神様は、「不義によって真理を阻んでいる人々の不敬虔と不義」に対して怒っておられるということです。しかし、それは、神様が私たちとの関係を大切にしておられることの証しに他なりません。神様は、私たちを愛し、私たちとの関係を大切にしていてくださるからこそ、神様との関係を軽んずる私たちの不敬虔と不義に対して、お怒りになるということです。そして、それだけではなくて、神様は、私たちとの関係が守られるために、ご自分の御子であるイエス様を十字架にかけられました。御子イエス様は、私たちの不敬虔と不義を十字架の上で背負ってくださり、ご自分を救い主として信じ受け入れるすべての人々に、神様から赦されて、神様と共に生きる道を開いてくださったということです。神様は、私たちと互いに向かい合って生きることを願っておられるということです。

 今日はその次の1章24-32節から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 今日の本文に描かれているのは、「不義によって真理を阻んでいる人々の不敬虔と不義」に対する神様の怒りの結果です。

 パウロは、神様が「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」と言っています。そして、この「引き渡されました」という言葉は、今日の本文の中で何度も繰り返されています。26節の前半部分には、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」とあり、28節の前半部分にも、「神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」とあります。

 神様は、不敬虔と不義を行う私たちに対して、お叱りになったわけではありません。何か罰をお与えになったわけでもありません。そうではなくて、「引き渡された」ということです。神様は、不敬虔と不義を行う私たちを、心の欲望のままに汚れに引き渡されたのであり、恥ずべき情欲に引き渡されたのであり、無価値な思いに引き渡されたということです。

 どういうことでしょうか。それは、神様が私たちの思いのままに任せられたということではないでしょうか。神様は私たちがやりたいようにすることを許されたということです。私たちの自由に任せられたということです。神様ご自身との関係についても、私たちの自由に任せられたということです。

 自由というのは素晴らしいものです。自由というのは大切なものです。私たちは誰もが自由を求めます。誰もが自由に憧れます。

 しかし、今日の本文に描かれている自由というのは、どのようなものでしょうか。それは、背後に神様の怒りがある自由と言ってもいいのかも知れません。神様の怒りの結果として与えられた自由と言ってもいいのかも知れません。神様は、ご自分との関係を軽んずる私たちの不敬虔と不義に対する怒りの故に、私たちを自由に任されたということです。そして、その自由こそが、神様の裁きに他ならないということです。

 繰り返しになりますが、自由というのは素晴らしいものです。自分の思い通りに生きることができるというのは、素晴らしいことです。あるいは、私たちは、自由の中でこそ、幸せを得ることができると考えるかも知れません。

 しかし、私たちの現実はどうでしょうか。自由であれば幸せでしょうか。何でも思い通りにすることができれば幸せでしょうか。残念ながら、必ずしもそうではないでしょう。むしろ、28節以下の部分を見る時、神様から与えられた自由を用いて、「してはならないことを行っている」のが、私たちの現実の姿ではないかということを思います。

 例えば、パウロは、「人を中傷し」ということを言っています。最近、SNSにおける誹謗中傷が、世界中で大きな問題になっています。日本でも、このSNS上の誹謗中傷が原因と考えられる自殺が起こりました。また、新型コロナウィルスに感染した人が、まるで犯罪者であるかのような中傷を受けて、仕事を続けられなくなったり、どこか別の所に引っ越しをしなければならなかったりすることが起こっています。実に悲しい出来事です。そして、私たちが生きている現在の社会というのは、人を中傷することだけでなく、まさにパウロが挙げているような事柄で満たされているのではないでしょうか。

 どうでしょうか。私たちは、与えられている自由によって、互いに愛し合い、互いに支え合っているでしょうか。その反対に、互いに騙し合い、互いに傷つけ合っていることが、どれほど多いでしょうか。そして、それは、私たちがまさに神様の裁きを体験していることに他なりません。私たちは、自由に生きているようでいて、神様の裁きの下に置かれているということです。私たちたちは、自由にやりたいことをやって、悪いこともして、その結果として、神様の怒りを買って裁かれるということではなくて、神様の怒りの結果として、すでに自由という裁きを受けているということです。

 そうすると、大切なことは何でしょうか。それは、私たちに与えられている自由の意味を知ることではないでしょうか。与えられている自由の意味を知り、その自由を与えてくださっている神様を恐れるということではないでしょうか。

 神様を恐れない時、私たちは何でも好き勝手なことをしてしまうかも知れません。自由は、まさに自分のやりたい放題ということになってしまいます。そして、そのような自由は、逆に、自分を傷つけ、互いに傷つけ合ってしまうような結果を招いてしまうかも知れません。

 しかし、神様を恐れる時、与えられている自由は、私たちをもっと別の方向へ導くのではないでしょうか。自分を傷つけ、互いに傷つけ合う生き方ではなくて、自分を大切にし、互いに愛し合う生き方へと導くのではないでしょうか。

 私たちはどうでしょうか。改めて、与えられている自由の意味を覚えながら、神様の方を向いて生きることができればと思います。

2.

 神様は、ご自分との関係を軽んじる私たちの不敬虔と不義に対して怒り、私たちの自由に任せられました。

 これはどういうことなのでしょうか。神様が私たちの自由に任されたというのは、私たちの存在が神様の手に余ったということでしょうか。「もう、お前らなんか知らん、自分の好きなようにせい」と言いながら、私たちを見放されたということでしょうか。

 私は、むしろ、その反対に、神様が私たちを深く愛されたからではないかということを思います。神様は、ご自分を拒み、ご自分を認めない私たちを徹底的に愛し抜こうとされたからこそ、私たちを自由に任せられたのではないかということを思います。なぜなら、愛というのは、相手を束縛するものではなく、相手に強制するものでもないからです。

 私は、今日の本文に描かれた神様の姿、私たちとの関係を大切にするが故に怒り、私たちを自由に任された神様の姿を見ていると、何だかルカの福音書15章に描かれた放蕩息子の物語が思い浮かびます。父親がまだ生きている間に、さっさと自分の相続財産を受け取って、遠い国に旅立って、好き放題をして堕落した放蕩息子の物語です。

 私たちが一般的に放蕩息子と呼んでいる人は、父親がまだ元気にしている時に、自分の受け取る財産を要求しました。聖書の時代においては、父親がまだ生きている間に、自分の受け取る財産を要求するというのは、あり得ないことでした。それは、父親をひどく侮辱することでした。まだ元気に生きている父親を殺してしまうことでした。そして、それは、父なる神様と私たちとの関係に置き換えるならば、私たちが神様を神様として崇めないことになるでしょう。神様と共に生きることを拒み、神様に愛されて生きることを拒み、自分の力で、自分の好きなように生きることになるでしょう。

 放蕩息子の父親はどうしたでしょうか。詳しく描かれてはいませんが、父親は、言われた通りに財産を分け与えました。そして、黙って息子を送り出しました。激しく?りつけるでもなく、罰を与えるでもなく、黙って息子を送り出しました。

 どうしてでしょうか。父親は、どうすることもできなくて、息子を見捨ててしまったということでしょうか。実は、激しい怒りのあまりに、反対に、父親の方から、「お前なんか、もう息子でも何でもない、出ていけ」と言って、追い出していたのでしょうか。放蕩息子の物語全体を見る時、決してそうではないということが分かります。

 放蕩息子は、文字通りに放蕩の限りを尽くして、受け取った財産をすぐに使い果たしてしまいました。食べる物にも困るようになり、屈辱的な生活をすることになりました。そして、最終的に父親の所に戻る決意をします。もちろん、本来なら、父親に会わせる顔はないでしょう。

 父親は、戻って来た息子をどうしたでしょうか。父親は、何と喜んで息子を迎え入れました。しかも、父親は家から遠く離れた所で息子を見つけました。息子が家に帰って来たのを見て、喜んで迎え入れたのではなくて、家から遠く離れた所で息子を見つけて抱き寄せたわけです。

 どういうことでしょうか。それは、父親が、いつも遠い所まで行って、息子の帰りを待っていたということではないでしょうか。毎日のように、家から遠い所まで行って、息子の帰りを待ち続けていたということではないでしょうか。

 神様は、私たちとの互いに愛し合う関係を願っておられます。私たちと互いに向かい合って生きることを願っておられます。しかし、その関係を、決して強制されることはありません。私たちが、神様の愛を拒み、神様と向かい合って生きることを拒むのなら、神様は私たちの自由に任せてくださいます。私たちを愛していてくださるからこそ、私たちの自由に任せてくださいます。しかし、同時に、待ち続けていてくださいます。放蕩息子を待ち続けた父親のように、私たちを待ち続けていてくださいます。そして、御子イエス様の十字架によって、すでに赦していてくださることを明らかにしながら、いつでも帰る所があることを私たちに示していてくださいます。

 神様を信じるのも、信じないのも自由です。しかし、その自由というのは、私たちが自分の力で獲得した権利のようなものではありません。むしろ、その反対に、神様の怒りの結果として与えられた自由です。神様からの裁きとして与えられた自由です。そして、同時に、神様が私たちを愛し、私たちとの関係を大切に考えていてくださるが故に、与えてくださっている自由です。そして、神様は、私たちがその自由を用いて、神様の方を向いて生き続けることを願っていてくださいます。

 十字架のイエス様を見上げながら、私たちとの関係を大切に考えていてくださる神様の怒りと愛を覚えたいと思います。そして、与えられている自由を用いて、私たちもまた、神様を愛する者でありたいと思います。神様を恐れ、神様との正しい関係の中に生きる者でありたいと思います。

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