礼拝説教から 2020年1月19日

  • 聖書箇所:創世記40章
  • 説教題:神のなさること

 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」(創世記40章8節)

 ヨセフは、「解き明かしは、神のなさること」だと言いました。「自分には何の力もない、だから、あなたがたの力になってあげることはできない」と言ったのではありません。反対に、「私が夢の解き明かしをしてあげよう」と言ったわけでもありません。そうではなくて、「解き明かしは、神のなさること」だと言ったということです。

 どういうことでしょうか。それは、ヨセフが、神様のなさることと、自分のすることの区別を、しっかりと弁えていたということになるのではないでしょうか。ヨセフは、「解き明かしは、神様のなさること」であることを弁えて、その神様のなさることに期待したということです。神様のなさることを見ようとしたということです。

 現在の私たちは、夢の解き明かしを求められるようなことはないでしょう。そして、「解き明かしは、神のなさること」だと言わなければならないようなこともないでしょう。

 しかし、どうでしょうか。もしかしたら、私たちもまた、様々な状況の中で、ヨセフと同じように、神様のなさることと、自分のすることの区別を、しっかりと弁えているかどうかが、しばしば問われているのではないかということを思います。私たちは、神様のなさることと、自分のすることを、ごっちゃにしてしまっていることが、しばしばあるのではないかということを思います。

 新約聖書に目を向けると、使徒パウロが、植える者と、水を注ぐ者と、成長させてくださる神様について語っている部分があります。

 コリント人への手紙第一3章5-7節を見てみます。<アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。> 新約聖書の時代、コリントという町の教会で、パウロとアポロは大きく用いられました。パウロの言葉によると、パウロが「植えた」のであり、アポロが「水を注いだ」ということです。パウロが福音の種を蒔き、アポロが福音を信じて受け入れた人々の面倒を見たということになるでしょうか。いずれにしろ、二人はとても大切な働きをしたと言えるでしょう。

 しかし、パウロがここで強調していることは、何でしょうか。それは、「成長させてくださった」神様ではないでしょうか。植えたパウロ自身でもなく、水を注いだアポロでもなく、それらの働きをすべて用いて、成長させてくださった神様です。植えたパウロ自身が成長させたというのでもなく、水を注いだアポロが成長させたというのでもなく、神様が成長させてくださったということです。大切なのは、成長させてくださる神様であり、その神様に目を向けることだということです。パウロは、人間の働きと神様の働きをしっかりと区別していたということです。

 確かに、私たちにはなすべきことがあるでしょう。ヨセフも、「解き明かしは、神のなさること」と言いながらも、自分で献酌官長と料理官長の夢の話を聞いて、その解き明かしをしました。しかし、その出来事全体を支配し、ヨセフを用いられたのは、やはり神様でした。ヨセフは、その神様のなさることを見つめていました。そして、その神様に用いられる者になりました。

 私たちはどうでしょうか。本来なら、神様のなさることを神様から奪い取って、自分の力でどうにかしようとして、もがいていることは、ないでしょうか。そして、自分の無力を思い知りながら嘆いているようなことは、ないでしょうか。逆に、ちょっと上手くいった感じになると、自分の力を誇っているようなことは、ないでしょうか。そして、いずれであるにしろ、結果として神様の働きを妨げているということは、ないでしょうか。

 「神様のなさること」、この言葉の前で、謙遜になることができることを願います。神様がなさることと、私たちがすることの区別を弁えることができればと思います。そして、「神様のなさること」に期待し、「神様のなさる」ことに用いられる者でありたいと思います。

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