礼拝説教から 2019年9月1日

  • 聖書箇所:創世記25章
  • 説教題:アブラハム、イサク、ヤコブの神の自由

 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。(創世記25章11節)

 イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。(創世記25章21節)

 イサクがリベカと結婚したのは四十歳の時だったようです。この結婚の詳しい経緯を記した24章を見ると、イサクとリベカの結婚は神様の導きによるものだったことが分かります。そして、その結婚生活は祝福に満ちたものだったと想像することができます。実際に、イサクは「リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した」と記されています。イサクとリベカの結婚生活には愛がありました。

 しかし、今日の本文を見ると、イサクとリベカの結婚生活は、何の問題もなかったと言えるようなものではなかったことが分かります。そして、その問題の一つは、子どもがなかなか与えられなかったということでした。

 もちろん、子どもの与えられないことが、イコール問題だということにはならないでしょう。結婚というのは、子どもを得るためのものではないわけです。子どもが与えられる、与えられないということと関係なく、夫婦は祝福された結婚生活を営むことができるわけです。

 しかし、アブラハムやイサクの時代、子どもが与えられることは、夫婦にとってとても大切なこととして考えられていました。しかも、イサクの場合、イサク自身もそうであったように、子どもの存在は、アブラハムの子孫を通して全世界の人々を祝福するという神様の約束そのものの前提となっていました。子どもが与えられてこそ、神様の祝福の約束は成り立つものでした。子どもが与えられないということは、神様の約束に対する疑問や不安につながりかねないものでした。

 イサクはどうしたでしょうか。イサクは祈りました。「神様はもう約束を忘れられたんだ」とでも思って失望したのでもなく、神様から離れてしまったのでもありませんでした。そうではなくて、イサクは神様に祈りました。そしてそれは、イサクが神様とその約束を信じたということを意味しています。イサクは、神様とその約束を信じたからこそ、祈ったのでした。そして、その祈りが神様に聞かれて、リベカは妊娠をしました。

 ちなみに、21節だけを見ると、実に簡単に祈りが聞き入れられたかのように記されていますが、26節には、子どもたちが生まれた時、イサクは六十歳だったと記されています。つまり、イサクは四十歳で結婚した後、実に二十年近くも、子どもが与えられるために祈り続けたのでした。そこには信仰による長い祈りがあったのでした。

 イサクは神様がアブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ子どもでした。イサクには神様からの祝福が約束されていました。そして実際に、神様はアブラハムの後継者であるイサクを祝福されたのでした。

 しかし、その祝福されているはずのイサクに、なかなか子どもが与えられないわけです。そして、なかなか子どもの与えられない中で、二十年近くも祈り続けた姿を見る時、イサクは自動的に神様の祝福を受け継いだわけではないということが分かります。それはイサクが「苦労をして祝福を勝ち取った」ということではありません。「難しい条件をクリアして」ということでもありません。そうではなくて、イサクは神様を信じたということです。イサクは、自分に祝福を約束してくださった神様を信じたということです。イサクはイサクとして、神様の前に立ったのでした。イサクはイサクとして、神様との関係の中に生きたのでした。父親であるアブラハムの信仰によってではなく、イサク自身の信仰によって、神様との関係の中に生きたのでした。そうして、神様の祝福に与って生きたのでした。あるいは、神様との関係の中に生きることそのものが、神様からの祝福ということになるのかも知れません。

 私たちの教会では、この四月から小さな子どもたちも同じ空間で礼拝をしています。「子どもだから母子室で」ということではなくて、同じ空間で礼拝に集っています。そして、その理由は、子どもたちもまた神様の祝福を受け継ぐ者として礼拝に招かれているからだということになるでしょう。すでに自覚的な信仰を持っている大人だけでなく、その子どもたちにも、孫たちにも、神様は祝福を約束しておられるということです。そして、何よりも神様を礼拝する場こそが、神様の祝福に与って生きる歩みのスタート地点だということです。

 イサクは父親であるアブラハムの信仰によってではなく、自分自身の信仰によって、神様の前に祈りました。イサクはイサクとして、神様との関係の中に生きる信仰が求められました。

 私たちの教会に与えられた子どもたちもまた、同じ信仰が与えられて、神様の祝福に与って生きる時が来ることを願います。神様との関係の中に生きる時が来ることを願います。そしてそのために、大人たちが礼拝の中で子どもたちを見守りながら、ともに心を合わせて祈り続けていくことができればと思います。

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