礼拝説教から 2019年8月18日

聖書箇所:創世記24章1-14、50-67節
説教題:イサクの結婚

 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。(創世記24章67節) 

 イサクはリベカを迎えて妻としました。妻のリベカを愛しました。そして、母であるサラの死んだ後、慰めを得ました。

 慰めを得るというのは、痛みや悲しみの中にあることがその前提になります。当然のことと言えば、当然のことですが、サラが死んで悼み悲しんだのは、夫のアブラハムだけではありませんでした。息子であるイサクもまた、母であるサラの死を悼み悲しんでいたのでした。

 そのイサクにリベカが与えられました。そして、リベカとの結婚生活がイサクの慰めとなりました。

 実にさりげなく記されていますが、どういうことでしょうか。イサクは妻となったリベカから、「よしよし」と言って慰められたということでしょうか。リベカから愛されて、そのリベカの愛によって、慰めを得たということでしょうか。

 今日の本文には、イサクがリベカを愛したと記されています。リベカがイサクを愛したということではなく、イサクがリベカを愛したということです。もちろん、リベカがイサクを愛さなかったということはないでしょう。リベカはイサクを愛したでしょう。しかし、イサクが慰めを得たのは、リベカに愛されたからではなくて、リベカを愛したからだということです。イサクはリベカを愛して慰めを得たのでした。あるいは、イサクが母であるサラを失って慰めを必要としたのも、イサクが「自分を愛してくれる人」を失ったからではなくて、「愛する人」をうしなったからということになるのかも知れません。

 私は、「慰められる」、「慰めを得る」というのは、誰かから愛されることとばかり考えてきたように思います。誰かから優しいことばをかけてもらうこととしか考えてこなかったように思います。そして、現実の歩みの中では、誰も愛してくれないと感じたり、どんなに優しくされても、この痛みや寂しさはどうにもならないと考えることが多かったように思います。

 しかし、今日の本文から知ることができることは何でしょうか。それは、イサクが慰めを得たのは、リベカを愛してだということです。イサクは愛されてではなくて、愛して慰めを得たということです。私たちは互いに愛し合う中で慰めを得るということです。

 ヨハネの福音書13章34節を見てみます<わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。> イエス様は互いに愛し合いなさいと命じられました。イエス様は私たちが互いに愛し合うことを願われました。そして、その出発点はイエス様の愛です。私たちは、イエス様から愛されていることを知っている者として、互いに愛し合うことが求められているということです。

 私たちは人生の中で様々な別れを経験します。そして、その別れによって、大きな慰めを必要とすることになる場合もあるでしょう。しかし、神様は同時にその慰めを私たちに与えてくださいます。それは、私たちが神様から愛されていることを知ることによってであり、互いに愛し合うことによってだということです。

 私たちはどうでしょうか。慰めを必要としているでしょうか。別れの出来事だけではなくて、様々な出来事の中で、慰めを必要としていることがあるでしょうか。あるいは、その慰めを得るために、自分を愛してくれる人を求めるばかりだというのが、私たちの現実であるかも知れません優しいことばがかけられることを期待しながら、一喜一憂しているのが、私たちの現実なのかも知れません

 イエス様は互いに愛し合いなさいと命じられました。このイエス様の命令を改めて受け止めたいと思います。イエス様が十字架によって愛してくださったことを覚えながら、互いに愛し合う者でありたいと思います。そして、イエス様から愛されていることを出発点として、互いに愛し合うことが、私たち自身のなぐさめにもつながることを願います。

 

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