礼拝説教から 2019年5月26日

聖書箇所:創世記14章
説教題:アブラムに祝福、いと高き神に誉れ

 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。↩ 「アブラムに祝福あれ。↩ いと高き神、天と地を造られた方より。↩ いと高き神に誉れあれ。↩ あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」↩ アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。(創世記14章18-20節)

 創世記14章には、大きな戦争の出来事が描かれています。四人の王(シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル)の連合軍と、五人の王(ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ツォアルの王ベラ)の連合軍との戦争です。この戦争は、五人の王が四人の王の中の一人、エラムの王ケドルラオメルに反乱を起こしたことから始まったようです。そして、聖書の中に、この戦争の出来事が記されているのは、神様によって選ばれたアブラムと甥のロトがこの戦争に巻き込まれたからだと言えるでしょう。豊かになったがゆえに、別れて生活をすることになった後、ソドムの町に住んでいたロトは四人の王の連合軍に連れ去られることになり、アブラムは遠くまで追跡をして甥のロトを救出したのでした。

 さて、アブラムがロトを救い出す戦いから戻って来ると、二人の王が出迎えました。一人はソドムの王ベラ、もう一人はサレムの王メルキゼデクです。

 ソドムの王は、四人の王の連合軍との戦争に敗れて、すべてを失っていました。四人の王の連合軍を倒したアブラムに対しては、借りができた形になってしまいました。一方で、サレサレムの王メルキゼデクというのは、四人の王と五人の王との戦争には出てきませんでした。突然のように現れました。いったい何者なのでしょうか。

サレムの王メルキゼデクについては、「いと高き神の祭司であった」と記されています。

 祭司というのは、神様と人間との間に入って、その仲を取り持つ人のことです。その神様と人間との仲を取り持つ祭司が、パンとぶどう酒を持って、アブラムの前に現れたのでした。そして、アブラムを祝福しました。

 そのアブラムを祝福するメルキゼデクのことばを見ると、二つのことが語られているように思います。一つ目は、神様がアブラムを祝福しておられるということです。そして、二つ目は、アブラムを祝福しておられる神様というのは、アブラムの敵をアブラムの手に渡された方だということです。アブラムが四人の王の連合軍を倒して、甥のロトを救い出すことができたのは、神様がアブラムを祝福してくださったからだということです。

 アブラムは四人の王の連合軍を追って、ダマスコよりもさらに北にある町まで行きました。しかも相手の軍勢は、人数も多かったでしょうし、戦いにも慣れていたことでしょう。五人の王の連合軍を倒しただけではなくて、その前にも、たくさんの民族を打ち破っていました。

 その強い相手を、アブラムはわずか318人の仲間とともに、遠くまで追跡をして打ち倒したのでした。甥のロトとその一行を救い出したのでした。

 どうでしょうか。アブラムは、四人の王の連合軍を倒して、ロトとその一行を救い出したことを、自分の手柄として、大いに誇ることもできたのではないでしょうか。まるで英雄にでもなったかのように、自分の力、知恵や勇気を誇ることができたのではないでしょうか。

 そして、もしかしたら、ソドムの王が自分を迎えてくれた時には、自分を誇りたい気持ちになっていたのではないかということを思います。ソドムの王に対して恩を着せたいという思いもあったのではないかと想像したりもします。

 しかし、そこにサレムの王メルキゼデクが登場しました。いと高き神の祭司であるメルキゼデクが登場しました。そして、このメルキゼデクから与えられた祝福のことばによって、アブラムは自分に勝利を与えてくださった神様に目を向けることになりました。神様こそが自分に勝利をもたらしてくださった方であり、ほめたたえられるべきは神様であることを教えられました。

 アブラムの勝利、それは神様から与えられた祝福に他なりませんでした。そして、アブラムに求められていたのは、その勝利を与えてくださった神様に感謝することであり、神様をほめたたえることでした。誉れを自分のものとするのではなくて、神様にお返しすることでした。アブラムは、このことを、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクによって教えられたのでした。

 アブラムを祝福された神様は、私たち一人一人も祝福してくださっています。そして、私たちが神様から祝福されている事実を、私たちの大祭司である主イエス・キリストによって教えてくださっています。

 私たちの大祭司である主イエス・キリストは、十字架の上でご自分のいのちをささげてくださいました。そうして、私たちに対する神様の愛と祝福を示してくださいました。神様から愛されて造られたにもかかわらず、神様の祝福によって生きる者として造られたにもかかわらず、神様の愛と祝福を拒んで、神様を捨てて生きる罪人の私たちを、神様が赦していてくださり、愛していてくださり、祝福していてくださることを教えてくださっています。神様から愛されていることを覚え、祝福されていることを覚えながら、神様を見上げて、神様をほめたたえて生きる道へと、私たちを招いてくださっています。

 毎週日曜日の礼拝で、私たちの大祭司として、十字架にかかってくださったイエス様を見上げることができることを願います。十字架のイエス様を通して、私たちを愛していてくださり、祝福していてくださる神様の御声を聞くことができることを願います。そうして、神様の愛と祝福に支えられながら、私たちを取り巻く様々な状況と向き合っていくことができることを願います。現実の様々な状況の中で、神様をほめたたえて生きることができることを願います。

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