礼拝説教から 2019年5月19日

聖書箇所:創世記13章
説教題:目を上げて見渡す

 彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。(創世記13章3-4節)

 飢饉の際にエジプトに一時避難をしていたアブラムは、ファラオから送り出されて、妻のサライや甥のロトを伴って、カナンの地に戻って来ました。アブラムは、自分が生き残るために、愛する妻のサライをファラオに売り渡すようなことをしてしまいましたが、神様がサライをアブラムの所に戻してくださっていました。アブラムは、自分の知恵と力によってではなくて、神様の恵みによって、妻とともに、カナンの地に帰ることができたのでした。

 アブラムは、「ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所」まで来ました。この「最初に天幕を張った場所」というのは、「以前に祭壇を築いた場所」でもありました。そして、アブラムはそのかつて祭壇を築いた場所で、主の御名を呼び求めました。まことの神である主の御名を呼び求めました。それは、アブラムが神様を礼拝したということです。

 カナンの地に戻ったアブラムは、神様を礼拝しました。それは、アブラムが本来のいるべき場所に戻ってきたということを意味しています。それは、ただ単に、アブラムが地理的に本来のいるべき場所に戻ってきたということではありません。もっと本質的な意味において、本来のいるべき場所に戻ってきたということです。アブラムにとって、本来のいるべき場所、神様を礼拝する場所へ戻ってきたということです。

 神様を礼拝するというのは、どういうことでしょうか。その一つの意味は、私たちが本来のいるべき場所に戻ってくるということです。それはもちろん、礼拝の行われている教会に、指定された時間に足を運べばそれでいいということではないでしょう。そうではなくて、礼拝の中で、神様が神様であることを覚え、神様の前で自分が罪人であることを覚え、神様がその罪人の自分を愛していてくださることを覚えることです。礼拝の中で、神様と自分の関係を確認し、自分が神様の恵みの中に生かされるべき者であることを覚えながら、新しく出発していくことです。

 アブラムは、神様の恵みの中に生かされるのではなく、エジプトの地で、自分の知恵と力によって生きる道を模索しました。そうして、愛する妻を道具のように利用してしまうことになりました。神様を礼拝する者であるアブラムは、神様から離れていたのでした。

 しかし、神様は、そのアブラムと妻のサライを守り、改めてカナンの地へと導かれました。ご自分を礼拝する場所へと導かれました。アブラムがいるべき本来の場所へと導かれました。

 私たちはどこにいるでしょうか。自分の知恵と力によって生きる道を模索しながら、自分のいるべき場所が分からなくなってしまっているというようなことはないでしょうか。礼拝の行われているまさにその場にいながらにして、神様から離れてしまっているということはないでしょうか。

 私たちのいるべき場所、それは神様を礼拝する場所です。

 毎週の日曜日に、定期的に、私たち一人一人が神様を礼拝する場所に招かれている恵みを深く覚えたいと思います。その毎週の礼拝の中で、神様とのふさわしい関係の中に生きる道へと招かれている恵みを覚えたいと思います。そうして、その恵みの中で、新しい一週間の歩みへと遣わされていきたいと思います。日々の歩みの中においても、神様を礼拝する者でありたいと思います。

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