礼拝説教から 2019年5月12日

 

聖書箇所:創世記12章10-20節
説教題:恵みの中に

 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。(創世記12章10節)

 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」(創世記12章13節)

 アブラムは自分の土地、自分の親族、自分の父の家を離れて、神様がお示しになる地へと向かいました。そうしてカナンの地に入りました。アブラム自身は、以前から住んでいる人々の間に寄留するような状況でしたが、自分の子孫には土地が与えられるという約束を、神様からいただきました。

 そのカナンの地に飢饉が起こりました。そして、その飢饉というのはとても激しかったようです。神様を信じて、神様だけを頼りにして導かれて来た地で、アブラムは深刻な飢饉に襲われたのでした。それはまさに、いのちが危険にさらされている事態だと言えるでしょう。

 アブラムはどうしたでしょうか。エジプトに行くことにしました。それは、アブラムが「エジプトに行けば何とかなる」と思ったということになるでしょう。

 そして、そのエジプトに行くことについて、「アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った」と記されています。アブラハムがエジプトに行ったのは、あくまでも「しばらく」のつもりだったようです。アブラハムは完全にエジプトに移り住んでしまおうとしていたのではなくて、あくまでも、一時的にエジプトに滞在するだけのつもりだったということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。アブラムにとって、自分のいるべき地はあくまでもカナンの地だったということではないでしょうか。「一時的にエジプトに行くことは行くけれども、後にはカナンに帰るんだ」ということです。アブラムは、神様によって導き入れられたカナンの地こそが自分のいるべき所として認識していたということです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、カナンの地が深刻な飢饉に襲われると、アブラムはエジプトに行くことを決断したのでした。神様によって導き入れられたカナンの地に留まるのではなくて、エジプトへと向かったのでした。それは、アブラムが自分で自分のいのちを守る方法を考えて行動したということを意味しています。深刻な飢饉に襲われてはいるけれども、神様ご自身が導き入れられたカナンの地に留まろうとしたのではなくて、神様の導きと恵みの中に留まろうとしたのではなくて、神様に支えられて生きる道を選択したのではなくて、自分の知恵と力で生きる道を選択したということです。神様だけを信じ、神様の導きだけを頼りにしてカナンの地に来たアブラムは、早くも自分の知恵と力を頼りにして生きる道を歩き始めたのでした。

 そして、その必然的な結果と言えるのかも知れません。アブラムは、エジプトの地に入る前から、考えられる危険を回避するために、対策を練りました。それは、妻のサライを利用することでした。アブラムは、妻のサライを利用して、自分のいのちを守ることを考えたのでした。自分の知恵と力によって生きる道を歩き始めたアブラムにとって、愛する妻は、「互いに向き合う助け手」であるはずの妻は、自分が生きるために利用することのできる道具に過ぎなかったようです。

 神様の恵みの中に生かされていることを覚える時、私たちの前には、ともに生きる人々を愛する道が開かれていきます。しかし、神様の恵みの中に生かされていることを忘れて、自分の知恵と力によって生きる道を模索する時、自分の目に映る人々は、道具に過ぎないということになるのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。与えられている家族、知人や友人、教会の兄弟姉妹、様々な状況の中で出会う人々を、どのように見ているでしょうか。「互いに向き合う助け手」として見ているでしょうか。互いに愛し合い、支え合う隣人として見ているでしょうか。自分が生きるために、自分が認められるために、利用することのできる道具のように見ているということはないでしょうか。

 まことの神である主イエス様は、「救い主」として、人々に祭り上げられようとしていました。イエス様は道具として利用されようとしていました。しかし、人々は、イエス様が自分たちの考える「救い主」ではない、自分たちの役に立つ道具ではないことが分かると、イエス様を「罪人」として十字架にかけてしまいました。そうして、イエス様は、神様を離れて、自分の知恵と力によって生きる道を模索する私たちの罪が赦される道を開いてくださいました。罪人の私たちを愛する「まことの救い主」となってくださいました。

 いつも日曜日の礼拝の中で、罪人である私たちを愛して十字架にかかってくださったイエス様を見上げたいと思います。イエス様の十字架の前で、自分がイエス様に愛されて赦されている罪人であることを覚えて、謙遜に、そして感謝して、新しくスタートしていきたいと思います。そうして、同じようにイエス様によって愛されている一人一人を、「互いに向き合う助け手」として、愛する隣人として見つめたいと思います。

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