礼拝説教から 2019年2月17日

聖書箇所:創世記3章1-13節
説教題:あなたはどこにいるのか

 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」(創世記3章9-10節)

 アダムとエバは神様が「園を歩き回られる音」を聞きました。エデンの園というのは、アダムとエバが神様とともに生きる所でした。

 しかし、自分自身が「神のように」なろうとして、「善悪の知識の木の実」を食べた後、アダムとエバは神様の御顔を避けて、身を隠しました。アダムとエバは、自分自身が「神のように」なろうとする罪を犯した結果として、まことの神様の前に出ることができなくなりました。

 しかし、そのアダムとエバに神様は呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか。」アダムが神様に呼びかけたのではありません。神様が、アダムに愛想を尽かして、隠れてしまわれて、その神様をアダムが呼び求めたというのではありません。そうではなくて、神様の方から、隠れているアダムに呼びかけられたということです。

 もしかしたら、私たちは「いったい神様はどこにおられるのか」と、社会全体のことであれ、個人的なことであれ、大きな問題に直面したりする時に、「神様はいったいどこにおられるのか、神様がおられるなら、どうしてこんなことが…」と、問いかけることがあるかも知れません。そうして、見えない神様を見つけることができなくて、「やっぱり神様なんていないんだ」というような結論に落ち着いたりすることがあるかも知れません。

 しかし、アダムと神様との関係に亀裂が入った後、呼びかけたのは、探し求めたのは、アダムではなくて、神様だということです。アダムが神様に呼びかけたのではなくて、神様の方がアダムに呼びかけられたということです。神様がご自身を、罪を犯して隠れているアダムを探されたということです。その呼びかけに答えなければならないのは、アダムの方だということです。アダムとともに罪を犯した私たち一人一人の方だということです。

 新約聖書の福音書に目を向ける時、まことの神である主イエス様は、神様から隠れている罪人の私たちを探すために、まことの人となって、この世界に来てくださった方であることが分かります。

 <人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。>(ルカの福音書19章10節)「人の子」というのは、イエス様がご自身のことを指して言われる時に使われたことばです。そして、「失われた人」というのは、私たちのことです。神様に対して、罪を犯して隠れてしまった私たちのことです。

 まことの神である主イエス様は、その「失われた」私たちを、大切な私たちを、探して救うために、この世界に来てくださいました。神様との関係を破壊した私たちの罪が赦されて、私たちがもう一度、神様との交わりの中で生かされるために、十字架にかかってくださいました。私たちが受けるべき罰を、私たちの代わりに受けてくださいました。そうして、私たちが神様に愛されて、神様に支えられて生きる道を開いてくださいました。

 「あなたはどこにいるのか。」アダムに呼びかけられた神様は、今も私たちに呼びかけていてくださいます。私たちを探していてくださいます。私たちを愛し、私たちとともに生きることを願って、探していてくださいます。

 私たちはどこにいるでしょうか。私たちを探しておられる神様の呼びかけに答えたいと思います。私たちを探すために、この世界に来てくださり、十字架にかかられたまことの神である主イエス様を見上げながら、神様の呼びかけに答えていきたいと思います。

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