礼拝説教から 2019年2月3日

  • 聖書箇所:創世記2章4-17節
  • 説教題:神様に仕えて生きる自由

 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16-17節)

 エデンの園には「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木」が生えていました。そして、アダムには園に生えているどの木からでも思いのままに食べることが許されていました。アダムには好きな木の実を取って食べる自由が与えられていました。

 しかし、その自由には一つの制限がありました。それは「善悪の知識の木からは、食べてはならない」ということでした。神様はアダムに対して、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われましたが、園の中央に生えていた「善悪の知識の木からは、食べてはならない」と言われたのでした。そして、その理由は「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」からだということでした。

 神様はアダムに対して、「善悪の知識の木」から食べる時、必ず死ぬと言われました。そしてだからこそ、「善悪の知識の木」から食べてはならないと言われました。神様は、アダムが「善悪の知識の木」から食べて死ぬことではなく、生きることを願われたのでした。

 しかし、だからと言って、神様はアダムが「善悪の知識の木」から食べないように、何らかの対策を講じられたわけでも、神経を尖らせておられたわけでもなかったようです。

 「善悪の知識の木」は園の中央に生えていました。「善悪の知識の木」が最も目立つ所に生えていたと言ってもいいのかも知れません。そして、「善悪の知識の木」は誰も近づくことができないように、守られていたわけではありませんでした。高い壁や深い堀で囲まれていたわけでもなく、恐ろしい罠が仕掛けられていたわけでもありませんでした。「善悪の知識の木」は、いつでも誰でも自由に近づくことができるようになっていました。つまり、アダムはいつでも好きな時に近づいて、そして望むならば、その木の実を取って食べることもできたということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。神様はアダムに「善悪の知識の木からは、食べてはならない」と言われましたが、そのご自分のことばに従うかどうかは、完全にアダムの自由に委ねられていたということになりそうです。神様は「善悪の知識の木からは、食べてはならない」というご自分のことばに従うことについて、アダムの自由を尊重されたということです。

 神様はアダムが生きることを願われました。死ぬことではなくて、生きることを願われました。しかし、だからと言って、神様はアダムのいのちを守るために、アダムの自由を奪うようなことはされませんでした。アダムの自由を奪ってまでして、アダムのいのちを守ろうとはされませんでした。あくまでも、アダムが自発的にご自分のことばに従い続けることによって、生きることを願われたのでした。

 アダムには自由が与えられていました。そして、神様のことばに従う中で、アダムは自由を満喫することができました。自由は神様との関係の中にこそあるものでした。

 もしかしたら、神様に従うというのは、自由を放棄することであるかのように思えるかも知れません。神様に従うことと、自由に生きることは、互いに矛盾することであるかのように思えるかも知れません。従うのではなく、自分の思いのままに生きることこそが、自由なのだと思えるかも知れません。そして実際に、アダムは後に、神様に従うことによってではなく、神様から独立することによって、より大きな自由を手に入れようとしました。神様からも干渉されることのない自由を手にようとしました。そしてその結果として、アダムは自由を失ってしまいました。死の支配の下に置かれることになりました。死の支配の下で、喜びが奪われ、様々な苦しみを味わうことになりました。

 神様は誰よりも私たちが自由であることを願っておられます。ご自分から独立して、逆に自由を失ってしまった私たちが、ご自分の中にあるまことの自由に生かされることを願っておられます。そしてだからこそ、まことの神である主イエス様が、私たちの所に来てくださいました。私たちが罪と死の支配の下から解放されて、あらゆる束縛から解放されて、まことの自由に生かされるために、主イエス様は来てくださいました。

 毎週の礼拝の中で、私たちを愛するがゆえに、死の支配の下にある私たちのために、十字架の上でいのちをささげてくださった主イエス様を、心の王座にお迎えしたいと思います。そうして、主イエス様に従う中で、まことの自由に生かされることを願います。主イエス様との関係の中にあるまことの自由を喜び、味わい、楽しみたいと思います。

コメントを残す