礼拝説教から 2018年11月11日

  • 聖書箇所:マルコの福音書15章42-16章8節
  • 説教題:死から復活へ
 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。(マルコの福音書15章43節)
 イエス様は、安息日の前日の午後三時頃に息を引き取られました。それは、もうしばらくすると、日が暮れて、日付が変わるという時間です。安息日が刻一刻と迫っている時間です。
 ユダヤの人々は、この安息日には一切の「仕事」をしてはならないと考えていました。それは、生活の糧を得るために働くことだけではありませんでした。買い物に行くことや食事の準備をすることもできませんでした。遺体を埋葬するようなことは、もってのほかだったことでしょう。つまり、安息日が始まる前に、イエス様の体を何とかしなければ、イエス様の体は、安息日の間中、十字架につけられたまま、野ざらしにならなければならなかったのでした。
 その安息日を前にして、イエス様が息を引き取られた時、アリマタヤ出身のヨセフという人が出てきました。このアリマタヤ出身のヨセフについては、「有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた」という説明が加えられています。
 「議員」というのは、イエス様を十字架の刑に追いやった議会の議員ということです。イエス様をまことの神と認めず、イエス様が神を冒瀆しているとして、イエス様を十字架の刑に追いやった議会の議員ということです。
 そのアリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の体の下げ渡しを願うというのは、自分の立場を考えるならば、なかなかできないことなのではないでしょうか。それは、イエス様を十字架の刑に追いやった自分たちの行動が、間違っていたことを自ら表明するようなことになるからです。もしかしたら、議員という自分の立場を危うくすることになるかも知れません。そうであるにもかかわらず、イエス様を十字架の刑に追いやった議会の議員であるアリマタヤ出身のヨセフは、十字架につけられていたイエス様の体の下げ渡しを願ったのでした。
 どうしてでしょうか。それは、アリマタヤ出身のヨセフが「神の国を待ち望んでいた」からだということになるでしょう。アリマタヤ出身のヨセフは、神の国を待ち望んでいたために、神様の完全な支配が行われることを待ち望んでいたために、イエス様を十字架の刑に追いやった議会の「有力な議員」であったにもかかわらず、十字架につけられていたイエス様の体の下げ渡しを願ったということです。
 アリマタヤ出身のヨセフは、「勇気を出して」ピラトの所に行ったと記されています。アリマタヤ出身のヨセフが、ピラトの所に行って、イエス様の体の下げ渡しを願ったのは、勇気を出してのことでした。それは、大きな信仰の決断だったと言ってもいいのかも知れません。
 信仰者になるということ、信仰者として行動すること、それは時に「勇気を出す」必要のあることです。信仰者になることによって、信仰者として行動することによって、損をすることになるかも知れない、自分の立場が危うくなるかも知れない、そうであるにもかかわらず、「勇気を出して」決断し行動することです。
 アリマタヤ出身のヨセフは、ずっと勇気を出すことができませんでした。もしかしたら、自分が自分の信じるままに行動することのできない弱い者であることを、いつも思い知らされていたかも知れません。イエス様に期待しながらも、ユダヤ人の議員という自分の立場を考えながら、イエス様を十字架の刑に追いやろうとする仲間たちに、堂々と反対することのできない自分の弱さを、思い知らされていたかも知れません。そしてもしかしたら、その弱い不信仰な自分が、イエス様を十字架にかけたんだということに、気づいていたのかも知れません。弱い不信仰な自分の罪を背負って、イエス様が十字架にかかってくださったんだということに、気づいていたのかも知れません。
 その弱い不信仰なアリマタヤ出身のヨセフが勇気を出しました。堂々とイエス様に従っていた弟子たちが、誰もいなくなってしまっている場面で、弱いアリマタヤ出身のヨセフは大胆な行動を取ったのでした。強い信仰を示していたはずの弟子たち全員が、あっさりと逃げていなくなっている場面で、誰よりも大胆な行動を取ったのでした。
 このアリマタヤ出身のヨセフを見る時、思い切った信仰の決断や行動というのは、「信仰が強いからできる」というようなものではないのかも知れないということを思います。むしろ、その反対に、弱い自分であることを認め、神様に信頼することのできない自分を認め、その弱い不信仰な自分の罪を背負って、イエス様が十字架にかかってくださったことに気づかされる中で、信仰の決断と行動は与えられるのではないかということを思います。弱い不信仰な自分を認め、その自分の罪を背負って、イエス様が十字架にかかってくださったことを見つめ続ける中で、私たちは信仰者として歩ませていただくことができるのではないかということです。
 自分の信仰によってではなく、弱い不信仰な自分の罪を背負って、十字架にかかってくださったイエス様に支えられていることを覚えながら、与えられた信仰を用いて、いつも勇気を出すことができればと思います。

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